【連載】掌の物語(14)居座る者と去る者 ・樹 亜希

 私はことさら夏の暑さに弱い。
 外気温が三十五度を越える京都の夏には、もうどうすることもできない。手も足も出ないどころか、私は鼻先も出すことはできない。しかし、やんごとなき事情ということは、往々にしてある。困ったものだ。通院だけは欠席、キャンセルは不可避。
 タクシーに乗って出かける罪悪感から、逃れることはできない。
 夜半になれば、涼しいのではないだろうかと、試しに自転車で夜の七時に出てみた。しかし、それが間違いであることに気が付くのは安易である。
 吹き出す汗。
 熱せられた黒いアスファルトは、私の体温を押し上げる。
 クーラーで冷やされた生やさしいからだでは、耐えられるはずもない。

 ある日の夕方のこと。
 空に浮かんでいた大きな黒い雲が湧き始めた。
 どこまでも鉛色の雲が広がってゆく……。
 もしかして、坂東太郎なのか?
 おまえがくるのか?

 大文字の送り火、その日だけは避けてくれと関係者誰もが、焼きもきする、京都の夏。
 ましてや台風が発生したとなると、最悪の上に最悪を重ねて、準備をされる方たちには毎年頭が下がる。
 あ、窓の向こうにはぼつぼつと鈍い何かが当たる音がする。
 私は少しだけ、カーテンの隙間から、外を見る。
 雨だ、それも大粒の雨が横殴りに降ってきた。そうだ、今のうちにたくさん降ればいい。
 大文字の送り火の日だけは避けてくれと思いながら、焼けた窓ガラスが冷たく冷えるのを感じている。雨のにおいがする。でも私は、二年前に虹の橋を渡った、愛猫のキャロルの気配を感じた。雷が遠くで鳴ると、怖がって必ず私の足下にすり寄ってきた。あの気配が、確かに感じられる。
 そうか、お盆だから帰ってきたんだね。
 私はふくらはぎにキャロルがいることに確信をすると、その気配に手を下ろす。そこに、あの毛並みはない。けれども、あの子は確実にいる。
 大雨と落雷が去ったあとに、私は自転車で近くの神社に行ってみた。そこは蛍がいることで有名だった。しかし、もう季節が過ぎて、蛍も暑すぎていなくなったかなあと、思っていたが、緑とも黄色とも形容しがたい、光の帯はいろいろな方向へと飛び交う。
 私だけかと思っていたら、他にも涼しいので散歩に出かける人も数名見られる。
「こんばんは」
「こんばんは、雨がふったら、えらいもんで、気温がぐっと下がりましたね」
 私は見知らぬ老婦人から声をかけられて、返事をした。
「明日は大文字やし、こんな降ったらたいへんやね」
「そうですね」
 京都ではその会話は珍しくない。
 若者はあまり、その辺は関係ないと、思われるが、カップルならば、鴨川に繰り出して仲よさげに浴衣などを着てたくさんの人がひしめき合う。
 私は昔から、そういう晴れがましいこととは縁がなく、一人で人が少ない場所で一人手を合わす。この火はお盆で戻って来た精霊があの世に戻れるようにと、灯される明かりだからだ。
 私は、今年はあまりにも暑いので部屋で一人、テレビ中継を見ようと決めていた。
 自転車に乗り、帰ろうとした時に、先ほどの老婦人に声をかけようとしたら、老父だけが一人そこにいた。
「あの、奥様は?」
「え、私一人ですよ」
「え、と、先ほど、こんばんはとお話していた人は……」
「知りませんよ」

 あ、そういうこと。
 私は自転車で夜道を走り、コンビニでいなり寿司と小さい缶ビールを買った。
 去年この世を去った夫が好きだった、いなり寿司を、小さなクリスタルの置物の前に置いた。缶ビールのプルは開けて。
 クリスタルの中央に米粒ほどに圧縮されたダイヤになった夫の骨が入っている。
 私は夫の気配を感じることなく、一人でテレビを見ていた。
 次の日の朝、掃除機をかけようと
ベランダの大きな掃き出し窓のカーテンを引くと、キャロルのひげが落ちていた。
あの子はいた、確かに。
 私はキャロルにもう一度会いたいと思う。
 でもそれ以外に会いたいのは東京へ仕事で行った娘だろうか。しかし、私もそう長くはない、この世にいるのは。重い病気を得たが、娘には言えていない。言うつもりもない。
 生きている間に娘に会えるだろうか?
 今日の夜は快晴がいい。
 私もそう遠くない時に、あの火を探すことになるだろうから。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
目次