【連載】ギッチョムの気仙沼だより(11)気仙沼とフェンシング

凱旋パレードに臨むロンドン五輪フェンシング日本代表メンバーら。左から2番目に当時の千田選手、1人おいて菅原選手
=2012年8月12日、気仙沼市田中前 佐藤紀生撮影

 2024年、フランス開催のパリオリンピック。今回も日本人選手はフェアプレーに徹し、懸命な戦いを繰り広げた。その中には、金2個を含む5個のメダルを獲得したフェンシング日本代表の躍進も含まれる。しかも男子個人エペ、同団体フルーレでは共に初の金メダル。男子団体エペで銀メダル、さらに女子はフルーレ、サーブルの団体で初の銅メダル獲得という、まさに日本フェンシングの強さが世界を驚かせるーそんな快挙を打ち立てた大会となった。フェンシング発祥の地、フランスで果たした堂々たる偉業だ。
 その女子団体フルーレの表彰式。式台で選手たちと共に喜びを分かち合う中に、コーチの1人である菅原智恵子さんの姿があった。菅原さんは、気仙沼市出身。鼎が浦高(現・気仙沼高)時代からフェンシングを始め、アテネ、北京、ロンドン五輪に個人フルーレで出場。北京では日本女子史上初の7位入賞、ロンドンでも7位に入った。07年の世界選手権ではフルーレ団体では銅メダリストに輝くなど、日本女子フェンシング界を牽引してきた第一人者だ。
 意外かもしれないが、気仙沼は男女ともフェンシングが盛んだ。もちろん野球やサッカーなどメジャーな競技に比べると、競技人口は決して多いと言えないが、今年は全国高校総体(インターハイ)のフェンシング男子団体で、気仙沼高校が19年ぶり4度目の優勝を果たしている。古豪という称号から、再び強豪校へと復活を遂げた。
 日本フェンシングの快進撃は、08年の北京五輪で太田雄貴選手が個人フルーレで銀メダルを獲得から始まった。そして4年後の12年。ロンドン五輪で男子フルーレ団体は強豪を次々破り、決勝に進出。惜しくもイタリアには及ばなかったものの見事、銀メダルを手にした。メンバーは気仙沼市出身の千田健太を含む太田雄貴、三宅諒、淡路卓の4選手だった。
 気仙沼でフェンシングが盛んになったのは1950年代。千葉卓朗さんが、全日本選手権で優勝してからだ。そのバトンは1964年東京五輪に出場した大和田智子さん、幻のモスクワオリンピック代表で現・日本フェンシング協会の会長を務める千田健一さんと繋ぎ、教え子である菅原智恵子さん、そして長男の健太さんが、それぞれ大輪の花を咲かせた。
 現在、そのバトンは脈々と受け継がれている。今後の活躍が期待されている1人に、22年にU-17世界選手権日本代表で、インターハイでエペ個人で優勝し、23年に世界ジュニア日本代表に入った臼井康晴選手がいる。気仙沼高から今春、中央大へ進学した。ぜひとも次回、28年のロサンゼルスオリンピックをはじめ、世界に大きく羽ばたいてほしい。

 写真は2012年8月12日、1週間前に快挙を成し遂げた男子団体フルーレの4選手と、女子個人フルーレ7位入賞の菅原智恵子選手が気仙沼市を訪れ、行ったパレード。東日本大震災が発生した前年に開催を断念した「気仙沼みなとまつり」が再開され、被災地を励ます「凱旋」となった。震災発生から1年5ヶ月。復興には至らず、まだまだ復旧の道半ばだったときだけに、千田選手らの活躍は、市民を大いに勇気づけた。まさにスポーツの持つ大きな力を実感した瞬間だった。
 個人的なことで申し訳ないが、千田さんは、私の長女と小中学の同級生。蛇足ながら、15年に英国で開かれたラグビーワールドカップで、南アフリカに劇的な逆転勝ちをした日本。今でも「ブライトンの奇跡」として語り継がれる日本代表の1人として出場した畠山健介さんと共に、気仙沼市松岩中3年2組に在籍。文字通りの同級生であり、今も親しい友人として交流がある。さらに菅原さんは、長女の高校時代の恩師(体育教師)でもある。
 気仙沼市から車で30分ほどで、メジャーリーグで大活躍中の大谷翔平選手の実家がある。プロ野球ロッテの選手で、22年には完全試合を達成した佐々木朗希選手は、気仙沼市と隣接する岩手県陸前高田市の出身だ。
 実は、横浜ベイスターズの前身の大洋ホエールズで投手として活躍した気仙沼市出身の島田源太郎さんも、1960年には完全試合を成し遂げている。
 全くジャンルは違うが、江戸時代の弘化4年(1847年)に第9代横綱の秀ノ山雷五郎も気仙沼出身だ。
 こう綴ってみると、気仙沼近辺にはスポーツに適したDNAを持つ人が意外と多いのかもしれない。
 結局は、楽屋落ち、地元自慢になってしまったが、誰にでもあるであろう地元びいきとして許してもらえれば幸いだ。

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