東海道五十三次– tag –
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【連載】シーボルトの江戸への旅路 No.14 ―沼津から小田原までの旅― 横山 実
1.4月7日(金)―沼津からの出発 シーボルトは、ビュルガーとともに、箱根に行く準備のために、4時頃に出立の準備にとりかかっています。夜明けとともに宿を出ましたが、間もなく朝日が昇ってきました。三島村の近くで「私は、意を決してビュルガー・・とともに乗物をおり、必要な器具を携えて急いで先行した」(シーボルト著・齋藤信訳『シーボルト参府旅行中の日記』(思文閣出版、1983年)94頁。以下、この本は、『日記』と略記します)のです。三島村では、大明神という神社を見ています。 図14-1.東海道... -
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【連載】シーボルトの江戸への旅路 No.13―蒲原から沼津までの旅―横山 実
1.4月5日(水)―蒲原での滞在 図13-1.東海道五十三對 蒲原乃駅 保永堂版の広重の「東海道五拾三次之内」シリーズが、大ヒットしたので、版元は競って趣向を凝らした東海道五十三次物を出版するようになりました。歌川国貞(後の三代豊国)が画いた「東海道五十三次之内(通称・美人東海道)」では、東海道の宿の風景と美人がとりあわせて画かれました。また、役者絵を見立てた「見立役者 東海道五十三對之内」も出版されています。そのような流れの中で、天保15(1844)年から弘化4(1847)年にかけで出版... -
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【連載】シーボルトの江戸への旅路 No.12―府中(現在の静岡)から蒲原までの旅―横山 実
1.4月4日(火)―府中(静岡)からの出発 シーボルトは、激しい雨の中、府中を出立しましたが、まもなく数軒の小さな店に気付いています。「家々には十二羽あるいはもっと多くのウズラを入れた小さい鳥籠が掛っているのが、よく目についた。この鳥は、ここから余所の地方に広く売られていて、啼き声の良し悪しによって小判一枚ないし二枚の値段がする」((シーボルト著・齋藤信訳『シーボルト参府旅行中の日記』(思文閣出版、1983年)87―88頁。以下、この本は、『日記』と略記します)のです。シーボルトは、... -
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【連載】シーボルトの江戸への旅路 No.11―日坂から府中(現在の静岡)までの旅―横山 実
1.4月2日(日)―日坂からの出発 日坂宿は、比較的小さい宿場で、天保14(1843)年の記録によると、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋33軒等、家数168軒で、住民数は750人でした。大田南畝(1749年-1823年)の「改元紀行」によると、ここではわらび餅が売られていました。また、峠越えをしてきた旅人の足の痛みを治癒する足豆散・足癒散等も売っていました。 シーボルトは、宿を出て山地を通り、東海道の三大難所(峠)の一つとされる小夜の中山へと向かいました。彼は、小夜の中山には「鳴らすと願をかけた人に銭... -
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【連載】シーボルトの江戸への旅路 No.10―吉田(現在の豊橋)から日坂までの旅―横山 実
1、3月31日(日)―吉田からの出発 シーボルトは、3月30日の夜に吉田宿に到着したので、吉田をほとんど見ていません。 図10-1.東海道五十三駅道中記細見双六で描かれた吉田 広重が画いた東海道五十三駅道中記細見双六(以下においては、「双六」と略称します)での吉田の絵では、豊川に架かる豊川橋の向こう側に城が描かれています。吉田城は、天正18(1590)年に豊臣秀吉の命令で家康が関東に転封された後、池田照政(輝政)が城主となっています。彼は、城の拡張や城下町の整備を行いましたので、吉田城は... -
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【連載】シーボルトの江戸への旅路 No.9―桑名から吉田(現在の豊橋)までの旅―横山 実
1.3月28日(火)―桑名からの午後の出発 シーボルトは、11時頃に桑名の城外の町に到着して、「鐘の鋳造や、その他の鉄製品を見物」(シーボルト著・齋藤信訳『シーボルト参府旅行中の日記』(思文閣出版、1983年)72頁。以下、この本は、『日記』と略記します)しています。徳川四天王の一人であった本多忠勝は、慶長6(1601)年に桑名の初代藩主になり、桑名の町を改造するために、大胆な町割りを行いました。その時、鋳物師を招き入れたので、桑名では鋳物業が勃興したのです。 その後、シーポルトは、若い... -
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【連載】シーボルトの江戸への旅路 No.8 ―石部から桑名までの旅―横山 実
1.3月26日(日)―ひと休みした石部からの出発 シーボルトは、石部の宿で少し休んだのち、「横田村の付近でアラ川・・を渡った。・・この川岸の村の手前には、金毘羅を祭って建てた巨大な灯明台で、石灯籠というもの」(シーボルト著・齋藤信訳『シーボルト参府旅行中の日記』(思文閣出版、1983年)68頁。以下、この本は、『日記』と略記します)がありました。 琵琶湖に注ぐ野洲川の源流の一つである横田川の渡しは、東海道の交通量が増えたので、夜間も運行されるようになりました。そこで、文政5(1822)... -
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【連載】シーボルトの江戸への旅路 No.7 ―京都から石部までの旅―横山 実―
1.3月25日(土)―京都からの出発 シーボルトは、「12時に険悪な天候をついて京都を発ち、四条を渡」(シーボルト著・齋藤信訳『シーボルト参府旅行中の日記』(思文閣出版、1983年)64頁。以下、この本は、『日記』と略記します)ったのです。 図7-1.東海道五拾三次之内 京師 三条大橋 歌川広重は、保永堂版の「東海道五拾三次之内」シリーズで、江戸から順番に東海道の55の宿場を画きました。その終点は、京師(「京師」は皇帝の都を意味しますので、日本では「京都」がそれに該当したのです)の三条大... -
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【連載】シーボルトの江戸への旅路 No.6 ―大阪から京都までの旅―横山 実―
1.3月17日(金)―大阪からの出発 8時頃に、難波橋(現在の地下鉄「北浜駅」の近くの通称ライオン橋)近くの長崎屋を出発して、1時間ほど北に向かって町の中を進んでいます。そこで「ちょうど刑場に引かれてゆく犯罪人に出会」っています。(シーボルト著・齋藤信訳『シーボルト参府旅行中の日記』(思文閣出版、1983年)58頁。以下、この本は、『日記』と略記します)大坂には、千日刑場、鳶田(飛田)刑場、野江刑場、三軒家刑場がありました。野江刑場は、高麗橋から約一里程の東成郡野江村の京街道に面した... -
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【連載】シーボルトの江戸への旅路 No.5 ―室から大阪までの旅―横山 実―
1.3月9日(木)―室からの出発 朝、室の宿を発ち、「すぐうしろにある険しい山を越え、われわれは、駕籠にとって難儀な谷へくだる道を運ばれて行った」(シーボルト著・齋藤信訳『シーボルト参府旅行中の日記』(思文閣出版、1983年)42頁。以下、この本は、『日記』と略記します)のです。山の麓では、「人力でかちとった耕地が拓かれていたが、その綿密さは、どんなにほめてもほめたりない位である。細い床は、畝と畝との間を深い溝で分け、そこにコムギ・ナタネ・ハトマメ・シロエンドウ・カラシが、そして...
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