「遠くは雲居(くもい)の室根山(むろねさん)」。
公立高校が長く男女別学だった宮城県。女子の鼎が浦高と2005年に合併するまでの旧気仙沼高は我が母校。冒頭に記したのは、当時の校歌の歌い出し部分だ。当地方の最高峰、海抜895mの室根山が、雲をまといそびえるさまを歌っている。しかし室根山は、岩手県一関市室根町(旧岩手県室根村)に位置する。宮城の県立高の校歌の冒頭に、他県の山が歌われていた。しかし、そのことへの異論は耳にしたことがなかった。宮城・岩手の県境にある港まち・気仙沼にとってはシンボリックな山であることの証左である。
室根山に鎮座する室根神社は、奈良時代の養老2年(西暦718年)に、紀州の熊野大社の御神霊を勧請して2018年に勧請1300年を超えた。
紀州から分霊を運んだ一行を乗せた船は、現在の気仙沼市唐桑町鮪立(しびたち)に到着し、そこから気仙沼湾を見下ろす15km先の室根山を目指した。蝦夷討伐祈願のために勧請されたという歴史に、東北人としては、複雑な思いもなくはないが、日本統一の最中のこと、大きな歴史のうねりに思いを馳せるだけにとどめたい。室根山は当時、地元では鬼首山と呼ばれていたが、紀州の地名に残る牟呂(むろ)から名前を取り、現在の山名に改められた。
気仙沼湾に上陸した熊野神社からの一行は、片田舎の人々を驚かすには十分な煌びやかな神輿渡御で、朝廷の権威を見せつけながら進んだことは容易に想像できる。
その行進の様子をベースに開かれているのが、旧暦閏年の翌年(原則4年に1回)開かれる室根神社特別大祭だ。「奥州の三大荒祭り」の一つに挙げられている。
その大祭が今月、10月25日から3日間にわたり、室根山一帯で、さまざまな古事に則った祭りが重層的に展開される。今回は、コロナ禍を乗り切り6年ぶりの大祭となる。
室根神社大祭は、祭事としての古式ゆかしい形を現在に伝える祭り行事として、昭和60年(1985年)には国重要無形民俗文化財に指定された。祭りは、8合目に位置する神社の本宮、新宮からそれぞれ神輿が麓を目指す。急坂な旧道を、氏子たちが重い神輿を運ぶ。麓では華麗な騎馬隊、色鮮やかな飾り付けをした「袰(ほろ)まつり」などを展開。クライマックスは高さ2丈5尺5寸(約7・7m)の仮宮への安置を二つの神輿が競う。その様子に人々は熱狂し、安置された際には盛大な拍手で、五穀豊穣、大漁満足、地域の安寧に願いを込める。
大祭には気仙沼市から2人の神役(じんやく)が参加する。一つは室根山を眺めながら鮪立湾で汲んだ潮水を入れた竹筒を届ける「御塩献納役」であり、もう一つは、室根町と山を経て隣接する新城地区から、秘事に則り、新米を炊いた粥を届ける「粥献司」。1300年前の勧請の際に、峠越えの際の一行に、里人が粥を振る舞い、歓迎したとの故事に従い、行われる。この「塩水」と「粥」が届かない限り、祭りを始めることができない。
このことに海の幸、里の幸を山の神に届けるという、極めて象徴的な意味合いが立ち上がる。
神社勧請、そして大祭とは別に、室根山は、気仙沼の漁民にとっては必要不可欠な山であった。標高が高く、かつ頂上が平らな山容は、他の山と容易に区別がつく。沖で漁をした船にとっては、自分の船の位置、帰るべき港までの距離、方向を知る「山ばかり」の役目を担った。「山を参考にして、己の船の位置を知る(測る)」。今の言葉で言い換えるとすれば「海の道標」というべき存在だったのだ。GPSがある現代とは違い、長い歴史の中で、漁民の命を守ってきた。ゆえに、気仙沼の漁業関係者の信仰を集める。
前段で「象徴的」と書いたが、それは鮪立のある気仙沼市唐桑地区のカキ養殖業者・畠山重篤さんが始めた「森は海の恋人」運動へとつながるからだ。運動は室根山一帯への、広葉樹の植樹だ。落ち葉が朽ちて腐葉土となり、鉄分などをたっぷり含んだ栄養素が室根山を源流とし、気仙沼湾に注ぐ大川を通じて、海へ溶け込む。その豊かな海が、さまざまな水産物を育てる。その恵みは縄文時代、いやその前から、人々の生きる、まさに糧になってきた。日本人の自然と共生するーその在り方の根っこを見る気がするのだ。
古くから肌で感じていた山から川を経て届けられる、目には見えないが、海にとって必要なもの。そこから始まる自然の連環。今でこそSDG’sなどと世界的なスローガンになっている考え方の大元ではなかろうか。
気仙沼港は今年もカツオ水揚げは好調で、既に28年連続日本一を確実にしている。カツオは黒潮に乗り、北上して来る。江戸時代には、紀州からカツオ船団が気仙沼沖で、当時、最新漁法であった「一本釣り」で大漁をしていた。そこで紀州から漁法に詳しい人たちを招き入れ、学び、気仙沼の漁民も豊漁を得ることになった。
紀州・熊野から勧請した室根神社。そして漁法を学び、気仙沼の漁業を大きく支えるカツオ漁。海でつながる、まさに大きな縁(えにし)であり、それが長い長い時を経つつ、未来への道も続いている。海という開かれた交通、交流、物品だけでなく情報などの、さまざまな流通は、関西、その後、関東へと移った中央政権と相互に結ばれた。気仙沼を含む当地方は金産地であり、駿馬の提供地であり、平泉の海の表玄関として、そして現在は豊富な水産物の水揚げ、加工拠点として、つながりを持ち続けている。東北のちっぽけな港まち・気仙沼。存外、気概は大きい。その根底には、たびたび気仙沼を「陸の孤島」と自嘲する風潮を上回る、「海の要衝」としての自負があるのかもしれない。