1.4月5日(水)―蒲原での滞在
保永堂版の広重の「東海道五拾三次之内」シリーズが、大ヒットしたので、版元は競って趣向を凝らした東海道五十三次物を出版するようになりました。歌川国貞(後の三代豊国)が画いた「東海道五十三次之内(通称・美人東海道)」では、東海道の宿の風景と美人がとりあわせて画かれました。また、役者絵を見立てた「見立役者 東海道五十三對之内」も出版されています。そのような流れの中で、天保15(1844)年から弘化4(1847)年にかけで出版されたのが、「東海道五十三對」シリーズです。伊場仙が中心となり、合計6つの版元が分担して制作しました。このシリーズの作品数の内訳を見ると、国芳が半数の30図、広重が22図(国芳との合作である「大津」を含まず)、三代豊国が8図を画いています。彼らは、各々の宿駅に因んだ故事、伝奇、歌舞伎の演目などから由来した人物を描いたのです。
国芳が画いた蒲原乃駅の絵では、二枚の団扇に、「六本松の故事」、「むかし矢矧の浄瑠璃姫 判官殿を恋慕ふてここまて到り疲れて終(つい)に死す 里人憐ミて葬り 塚の即に松を六本植置たり 後 小野於通といへる風流の妓女此姫の生涯の事を書つらね十二段とし 薩摩といへる傀儡師に教えて節を付語せける 是浄るりの中祖也」と書かれています。国芳は、浄瑠璃の中興の祖である小野於通を見立た女が、富士山の絵の傍らで本を読んでいる様子を描いたのです。
この絵は、広重が画いた雪景色の名作です。江戸時代は、世界的に寒冷な時期でしたが、それでも、温暖な土地である蒲原で大雪に見舞われることは、稀有でした。ですから、この絵は、広重が「夜之雪」というテーマを設定して、自分の心象の雪景色を画いたと解釈されています。
傘をさした人は西の方へ、蓑を着た二人は東へと、雪を踏みしめて歩いています。この絵の初摺りは、夜の空が上から下に向けて明るくなっていく「天ぼかし」となっています。それに対して、後摺りである図13-2では、夜の空の下から上にむけて明るくなっていく「地ぼかし」という摺り方が用いられています。深々と降る雪の景色としては、後摺りの方が印象的です。
図13-2では、ところどころに虫食いの跡があります。私は、1980年に川崎浮世絵協会が設立された時、浮世絵複製家の高見澤忠雄に会っています。彼は、50万円の代金で、図13-2の絵を、江戸時代の和紙と絵具を用いて、完璧に補修できると述べていました。私は、虫食いも歴史的事実として大切にしたかったので、彼の申し出を断りました。高見澤忠雄は、1985年に亡くなっています。熟達した彫師や摺師は、高齢化しており、高見澤のような複製の優れた技術を持った職人は、いなくなりつつあります。
蒲原は、江戸を襲った安政大地震の前年の嘉永7(1854)年12月に、大地震に見舞われています。その時、蒲原は、地震や津波による崩壊、そして、その直後の火事により、壊滅的な打撃を受けました。志田威の生家は、一部損壊しましたが、火事は被らなかったので、翌年には修復しています。なお、この修復された生家は、江戸期の典型的な町家建築で、間口が狭く、土間が奥まで通じています。蔀戸(しとみど)、箱階段、囲炉裏なども、当時のまま残っています。ですから、天保時代に建てられた醤油醸造場とともに、東海道町民生活歴史館として公開されています。
2.4月6日(木)―蒲原からの出発
すばらしい春の天気に恵まれて、シーボルトは蒲原を出発しています。まもなく、「間の宿」の岩淵村に着いています。そこで経度を測り、3分の1は雪に被われている富士山の絶景を楽しんでいます。
私は、高校の同期生の志田威の案内で、2011年5月5日に、由比、蒲原および岩淵を訪れています。下記の絵図では、江戸時代の「間の宿」の岩淵と、現在の交通網が示されていました。
岩淵は、西から富士川を越える際に、休憩所として利用されました。ただし、富士川が洪水などによって水量が増すと、川止めとなりましたので、旅人は、岩淵宿で宿泊することになったのです。
岩淵村の名主であった常盤家は、「間の宿」の小休本陣を営み、また富士川の渡船役を勤めました。現存する常盤家の建物は、安政元(1854)年に発生した安政大地震で大破した後に、再建したものです。木造平屋建、切妻、桟瓦葺き、桁行8間、張間5間半、建築面積249㎡の建物は、東海道に残る数少ない本陣建築の遺構なのです。
岩淵村の西の入り口には、写真13-2で示されているように、一里塚があります。
徳川家康は、関ヶ原の戦いで勝利すると、慶長6(1601)年に江戸から大阪を結ぶ東海道に宿駅制度を設けました。その3年後には、幕府は、大久保長安に命じて、東海道に1里ごとに塚を築かせたのです。写真13-2は、その時に築かれたもので、江戸から37里目の塚です。
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富士川はまだかなりの水嵩でしたが、シーボルトは、舷側の高い舟で川を渡してもらえたのです。その時、「薩摩侯の側室が侍女たちを伴って其処を乗物で通り過ぎた」(シーボルト著・齋藤信訳『シーボルト参府旅行中の日記』(思文閣出版、1983年)92頁。以下、この本は、『日記』と略記します)のです。シーボルトは、遠慮せず、従僕を通して、ひとにぎりの指輪や髪飾りを差し出しています。後述するように、薩摩老侯である島津重豪は、阿蘭陀文化の心酔者でしたので、側室は、シーボルトからの贈り物を、「満足げに、・・受け取られたのです」(『日記』、92頁)。
富士川を渡った岸で、シーボルトは、六分儀を使って測量し、富士山の高度が、8度44分であることを知りました。吉原の宿場の手前で街道が交差する辺りで、シーボルトは、「ご馳走はないが、心のこもったもてなしを受けた。・・料理と富士山の雪で作った酒・・を用意しているので知られている農家があり、われわれは其処で休んで疲れをいやした」(『日記』、92頁)のです。その後に、二、三の小さな村を通り、吉原に着き、そこで昼食をとっています。
吉原は、富士山参詣の拠点として賑わっていました。江戸時代の初期は、現在のJR吉原駅の近くにありました(その場所は、「元吉原」と呼ばれていました)。寛永16(1639)年には、高潮によって、元吉原は壊滅的な被害を受けました。そこで、内陸部に宿場を移しました。しかし、延宝8(1680)年に、再度の高潮で宿場は崩壊したので、さらに内陸部に移転したのです。その移転により、東海道は大きく湾曲することになり、東からの旅人は、富士山を左手に見ることになったのです。そこで、図13-3では、「左富士」という表題が書かれているのです。
馬には、3人の子どもが乗っていますが、その乗り物は「三宝荒神」と呼ばれていました。馬は、蹄を保護するため、草鞋を履いています。富士山が茶色に描かれているので、子どもたちが、吉原宿の家に帰る夕方の景色です。
吉原宿では、オランダ人や古い友人が、出迎えてくれました。次の原宿には、有名な植物園があると聞いていたので、シーポルトは、ビュルガーと共に一行に先だって出発し、歩いて原宿に向かっています。「二、三時間後に有名な庭園に着いた。・・観賞植物が非常に多く、日本人の趣味で集めて整理してあって、私がこれまでこの国で見たもののうちで、最も美しい庭園であった・・庭の中央には感じのいい亭があり・・また温室も作られていて・・もう一方の側には、・・サクラやウメなどの森があり、瀟洒で落ち着きのある亭に通じて」(『日記』、93頁-94頁)いたのです。この庭園の名前は、帯笑園です。
帯笑園は、原の宿場の植松家が、代々、観賞植物を収集し、それで植物園を形成したのです。盆栽や鉢物や花壇があり、豊富な植物コレクションを四季折々でもっとも美しい状態で鑑賞できるようにしていたのです。また、当時としては珍しかった温室も備えていたのです。
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享保(1716年―1736年)以降には、狭い家に住む庶民も、鉢植えを楽しむようになりました。植木屋ができて、庶民は植木市などで手軽に鉢植えの草花を買うことができたのです。植木屋は工夫を凝らすようになり、「唐むろ」と呼ばれる温室で、桜や梅、福寿草などの「早咲き」を作り出すようになりました。早咲きは通常の季節より早く咲かせることで希少価値が生まれ、正月の植木市でも縁起物として人気がありました。夜市で、鉢植えを買おうとしている母娘を描いたのが、次の絵です。
この絵は、歌川国芳(1798年-1861年)が画いたものです。佐野喜と蔦屋の共同出版で、100枚ほどのシリーズとして出版されたものの一枚です。国芳は、幕末の三大絵師の一人として、美人画の三代豊国、風景画の広重とならんで、「武者絵の国芳」と呼ばれたのです。彼の美人画シリーズの代表作が、山海愛度図会です。表題では、言葉遊びが見られ、「めでたいづゑ」や「山海目出たい図会」などと、異なる表記が見られるのです。このシリーズの表題は、「目で見て愛する」と「目出度い」とが、掛け合わさっています。
左上のコマ絵では、国芳の弟子たちが、雪鼎の「日本山海名物図会」や関月の「山海名産図会」に倣って、日本全国の名産が生産されている様子を描いています。図13-4では、大隅半島で榑板を生産している様子が描かれています。左の男は木挽鋸(こびきのこ)で木材を切り、右の休憩中の男は、煙管でたばこを吸っています。このコマ絵では、「女雲里(?)画」と署名されているので、国芳の女弟子が画いたものと思われます。幕末には、絵の好きな少女が、絵師に弟子入りして、絵を習っていたのです(しかし、一人前の絵師としては、活躍できなかったのです)。
絵の中央には、コマ絵で描かれた山海名産品の生産とは無関係に、国芳が美人を画いています。このシリーズの副標題は、「たい」という語尾で統一されています。「よい夢でも見たい」や「一寸あいたい」といった表題に基づいて、国芳は、美女の姿を画いたのです。
図13-4の副標題は、「まけてもらいたい」です。母が娘と共に夜市(左端には提灯が描かれています)で、鉢植えを買おうとしています。母は、二つの鉢植えを買うから「まけてもらいたい」と、売主と交渉しているのです。
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原の宿場も、高波の被害のため、慶長14(1609)年に、海岸近くから北側に移されています。1軒の本陣と1軒の脇陣があった原は、天保12(1841)年の時点では、家数387軒で人口は1777人だったのです。
西から原の宿場に入る手前には、湿地帯のような浮島ヶ原が広がっていました。そこからは、図13-5で示されているように、高く聳え立つ富士山を眺めることができました。
図13-6では、原の宿場を早朝に出立した母娘が描かれています。江戸時代の初期には、箱根の関所では「入鉄砲 出女」が、きびしく監視されていました。一方では、江戸での謀反を防ぐために、鉄砲などの武器類が江戸に持ち込まれることを阻止しようとしたのです。他方では、大名の正妻は人質として江戸に住まわなければならなかったのですが、反乱を企む大名は妻子をこっそり江戸から脱出させる可能性があったので、「出女」を厳しく取り調べたのです。しかし、幕末になると、裕福な商人の妻は、伊勢詣でなどの名目で、旅を楽しむようになったのです。図13-6では、箱根の関所を越えて、供を従えた母娘が、浮島ヶ原から富士山を眺めています。早朝ですので、富士山の右下の斜面は朝日で赤く染まっています。富士山の高さを表すために、図13-5も図13-6も、山頂は額面の枠外に描かれています。
シーボルトは、夕方近くに沼津に着き、そこで1泊しています。
広重の東海道五拾三次之内シリーズが刊行された当時は、沼津は、5万石の水野沼津藩の城下町でした。ですから、宿場の規模は、原の宿場よりは大きく、本陣は3軒、脇本陣は1軒、旅篭屋は55で、総戸数は1234だったのです。
図13-7では、旅人たちは、月明かりの下で狩野川に沿った道を、西の方角の沼津宿に向かっています。男が背負う天狗は、猿田彦の面です。彼は、讃岐の金毘羅を詣でて、その天狗の面を金毘羅大権現への奉納したことでしょう。彼の前を歩く二人は、親子連れの巡礼(一説に二人の尼僧とも)です。
次回は、沼津を出発して、小田原に到着するまでの旅を書かせていただきます。
1943年川崎市に生まれる。1978年から浮世絵の収集を始める。
1980年に川崎浮世絵協会の設立に参加する。
その時に、世界的に有名な浮世絵収集家である斎藤文夫さんと知り合う。
現在は、國學院大學名誉教授(元法学部教授)、国際浮世絵学会理事
シーボルト参府旅行中の日記
シーボルト 著 / 著齋藤信 訳
刊行年月:1983年01月 思文閣出版