気仙沼の顔と称される気仙沼湾の最奥部。「内湾地区」と呼ぶ、その一帯は気仙沼市の「へそ」とも言える場所だ。
東日本大震災前は、離島であった大島とを結ぶ定期航路の汽船やフェリーの発着所があり、背後には気仙沼の中心市街を抱えていた。天然の良港として知られる波穏やかな入江は、リアス海岸特有の折りたたんだ海岸線の行き止まりにある。
昭和31年、内湾の入り口よりやや外側にある現在地に移転するまでは一番奥に気仙沼魚市場があり、まさに「港まち・気仙沼」の中核を形成していた。
震災後は、観光クルーズ船の桟橋を持つ商業施設が玄関口を彩っている。「海と生きる」を合言葉に復興を成し遂げた気仙沼の、変わらぬ「へそ」であり、「顔」でもある。
その内湾一帯を、気仙沼人は古から「風待ちの街」と呼ぶ。帆船時代は言うに及ばず、発動機が登場してからも、漁に出る船は「風を読む」。今は凪(なぎ)であっても、天候の急変は海の上では命に関わる。それゆえ「いい風が吹く」のを「待つ」のが、船の全責任を負う「船頭」(今で言うところの漁労長)の「陸」(おか)での一番大きく、重たい仕事でもあったのだ。
当然、船問屋など漁業に関係する会社や店が軒を並べていた。
その中には「昭和ロマン」を感じさせる建造物が交じる。古色蒼然とした老舗の木造家屋の中にポツポツと趣のある建物が人々の目を引く。
そこには二つの要因がある。一つは、昭和4年に気仙沼を襲った大火がある。内湾一帯を形成する魚町から南町の街並みをことごとく焼き尽くす、文字通りの大火事であった。人々は焼け落ちた建物を造り直したが、少なくない商店が、火事被害を免れようと、土蔵をセメントと砂を混ぜたモルタルで外壁を覆うなど、耐火性に優れた建物が多く建てていった。
そして二つ目の要因は、江戸時代には同じく旧伊達藩であった、気仙沼市北隣りのまち、岩手県陸前高田市を中心とする気仙郡には、「気仙大工」と呼ばれる腕の良い職人集団が多くあり、その腕を競っていた。
そこで気仙沼人たちは、大火を経て店や会社を再建する際に、彼らに思う存分腕を奮うように注文をした。世界三大漁場を目の前にした気仙沼は、当時から裕福な大店(おおだな)も多く、港まちらしい進取の精神にも富んでいた。
気仙沼大工と建主は大いに知恵を絞り、重厚な木造家屋に大看板、またはモルタルにさまざまな工夫を凝らした和洋折衷のビルなど、まさに百花繚乱の例えの如く、東北の田舎町にしては、少々場違いとも思える街並みが誕生した。
その建物は気仙沼人にとってはいつか街並みに溶け込み、さほど関心を寄せる人も多くはなかったが、気仙沼の成り立ち、特徴を調べて、後世に伝える運動が起きた。2002(平成14)年、まちづくり団体や、建築家、地元有志などが集い「気仙沼風待ち研究会」を発足。内湾一帯を中心に残る伝統的、かつ昭和ロマンの漂う建造物をピックアップ、詳細に調査したり、市民に提示する活動を続けた。
その結果、現在までに6棟が、国登録有形文化財に指定されている。
その建物を紹介したい。
まず内湾を臨む場所にある3階建てのビル。「男山本店」。次に紹介する「角星」とともに気仙沼の酒蔵の一つである。

一見すると鉄筋コンクリートの建物に見えるが、これが木造モルタル造りなのが、まさに「昭和ロマン」。震災で気仙沼大工が、その技術の粋を集めた西洋風意匠が目を引く3階部分を残し、1、2階は津波で押し流されたが、見事に復元された。昭和の大火によって、生まれた洒落た建物として、令和の時代にも、内湾を彩る。
1階は以前の通り店舗だが、2階は会議場所として利用できるし、3階は展示ギャラリーとして「風待ち地区」の紹介などの展示が行われている。
次は、同じく造り酒屋「角星」(かくぼし)」の土蔵風の木造建築。切妻瓦葺きの屋根と大きな看板、そのどっしりとした重厚な佇まいは、港まちの風情にマッチしている。こちらも1階部分は壊滅し、2階部分だけが津波で近くの場所に打ち寄せられたが、辛くも原形を止めた。こちらも忠実に復元が施された。1階は店舗、2階はギャラリーや集いの場として市民に開かれた場所となっている。

このほかの有形文化財は「武山米店」。2階の外壁は銅板張で装飾が施されているなど、こちらも重厚な中にも洒脱な景観はまちのアクセントとなっている。こちらも震災で被災し、復元。建物に隣接する蔵には「炊飯博物館」を新たに併設。電気炊飯器やかまどなど米や炊飯に関連する展示などがされている。
「三事堂ささ木」。こちらは大正中期の建築。陶器店兼住宅と土蔵で、市街地では数少ない昭和の大火以前の建物。震災でも大きな被害は免れた。木造2階の寄棟造の店舗と、その奥に住宅が続く。店舗2階は洋風に仕上げた窓が特徴的。土蔵は、洋風の小屋組で屋根は切妻。店舗、土蔵とも外壁は白漆喰(しっくい)で、瀟洒な気品を感じる。内装も凝っている。
五つ目は「小野健商店」。廻船問屋を営んでいた当時、昭和初期に建造の土蔵。これぞ「気仙沼大工」の仕事を思わす伝統的な土蔵建築で、入口は重厚な黒漆喰塗、外壁は白漆喰塗に海鼠(なまこ)壁。雲に鶴、波に亀などが、こてで描かれており、左官の優れた手腕が窺い知れる装飾が光る。
震災で外壁が損傷するなどしたが、復元された。現在、土蔵内では漁業や震災の歴史を伝える展示のほか、定期的に開かれる展示会などギャラリーとして市民に開放されている。
最後は「千田家住宅」。交差点の角にあり、角にそって滑らかな円形に整えられた壁面が最大の特徴。港まち・気仙沼にマッチするような船をイメージした木造モルタル造り。昭和の大火後の建造。当時は資材会社の所有だったが、おしゃれな外観から、その後はさまざまな店舗として気仙沼の街並みには溶け込んできた。
登録有形文化財にはなっていないが、気仙沼の市街地には「喫茶マンボ」など、まさに「昭和レトロ」そのままの喫茶店が現役で営業しているし、さまざまな土蔵なども点在する。
震災で街並みも大きな被害を出したが、「気仙沼風待ち研究会」は「気仙沼風待ち復興検討会」と名前を改め、震災以前から「国登録有形文化財」の指定を得ていたなど、そのコツコツとした活動があればこそ、復元を果たすことができた。
これからも「海と生きる」気仙沼の景観を磨き上げ、それを後世へと繋いでいく。それが今を気仙沼に生きる私たちの使命でもある。
自分たちが好きでない街に、観光客、行楽客を呼べるわけがない。自分たちで愛することのできる「港まち」で今後もありたい。