【連載】シーボルトの江戸への旅路 No.12―府中(現在の静岡)から蒲原までの旅―横山 実

1.4月4日(火)―府中(静岡)からの出発

 シーボルトは、激しい雨の中、府中を出立しましたが、まもなく数軒の小さな店に気付いています。「家々には十二羽あるいはもっと多くのウズラを入れた小さい鳥籠が掛っているのが、よく目についた。この鳥は、ここから余所の地方に広く売られていて、啼き声の良し悪しによって小判一枚ないし二枚の値段がする」((シーボルト著・齋藤信訳『シーボルト参府旅行中の日記』(思文閣出版、1983年)87―88頁。以下、この本は、『日記』と略記します)のです。シーボルトは、啼き声はよくないが、羽根が一番きれいなものを二、三羽、剥製にするために、従者に安い値段で買わせています。

 日本では、小鳥のさえずりや羽色の美しさを競う「小鳥合」が、古くからおこなわれていました。ウグイスの鳴き声のよさを競い合う遊びである「鶯合」は、平安時代から行われていたといわれています。ウズラについては、鳴き声が「御吉兆(ゴキッチョ-)」と聞こえたので、戦国時代には、兵士の士気を高めるため、籠に入れた飼育状態のまま、戦場に持ち込まれたこともあったのです。
 江戸時代になると、鳥の飼育書や解説書が次々に出版されています。庶民が飼育していた野鳥は、スズメ、ウグイス、ウズラ、ヤマガラなどです。山野で捕えられた小鳥は、小鳥屋で籠に入れられて売られていました。購入した庶民は、自宅で小鳥の飼育を楽しんだのです。なお、家禽として飼育されたウズラの場合は、その卵あるいは肉は、食用に供されていました。

図12-1.鶯を飼う女

 この絵は、鳥居清長(宝暦2(1752) - 文化12(1815)年)が若い時に描いたものです。女が丸顔なのは、鈴木春信の美人画を模倣したからです。女は、柱にもたれて立っている妹(?)とともに、豪華な駕籠の中で飼育されている鶯を見つめています。雑食である鶯は、ミミズ、クモ、トンボなどの昆虫とともに、果物の種や実などを食べます。ですから、縁側には、餌を作るための擂鉢(すりばち)が置いてあります。

 シーボルトは、しばらくすると、「村の近くでにぶい波の音が聞え、海が近いことが判った」(『日記』、88頁)のです。江尻の宿を過ぎたところで、海の気配を感じたのでしょう。
 江尻は、巴川の尻(下流)を意味します。この宿場は、駿河湾に注ぐ巴川がつくる砂洲の上にありました。戦国時代に武田家の家臣の馬場信春が、そこに城を築いたので、それ以降、城下町として栄えました。また、そこの清水港は、江戸への物流の拠点として賑わったのです。幕末から明治にかけて、この港を拠点として活躍した博徒が、清水次郎長です。
 保永堂版の「東海道五拾三次之内 江尻 三保遠望」では、徳川家康が最初に埋葬された東照宮のある久能山から、清水港を眺めた景色が描かれています。この絵に描かれているように、対岸の三保の松原との間の入江には、清水港に荷物を運ぶたくさんの船が、停留していたのです。

図12-2.東海道五十三駅道中記細見双六で描かれた江尻

 広重が画いた東海道五十三駅道中記細見双六(以下においては、「双六」と略称します)の江尻の絵では、東北の山側が描かれています。山の間に富士山が聳えていたのです。

図12-3.東海道江尻田子の浦略図

 江尻田子の浦略図は、葛飾北斎(宝暦10(1760)?‐嘉永2(1849)年)が画いた富嶽36景シリーズの1枚です。保永堂版の広重の東海道五拾三次之内シリーズとほぼ同じ時期の天保2(1831)年―天保5(1834)年に刊行されています。好評であったので、当初の36枚から10枚が追加で刊行されています。
 田子の浦の名前は、奈良時代の万葉の歌人である山部赤人の名歌「田子の浦ゆ うち出てみれば真白にぞ 富士の高嶺に雪はふりける」で広く知られています。しかし、山部赤人がどこでその歌を詠んだのかは、定かでありません。
 北斎の絵は、「江尻田子の浦」と表題がついているので、江尻宿の沖合の海での漁を画いているように思われるかもしれません。しかし、「双六」江尻の絵で示されているように、江尻からは、富士山の雄大な稜線は見えません。そこで、北斎が画いたのは、蒲原宿の沖合の海からという説があります。北斎は、場所を特定せず、富士山の雄大な長い稜線を描きたくて、図12-3を画いたものと思われます。
 富嶽36景の特徴は、風景の中で労働している人々が画かれていることです。図12-3の近景では、舳先で網を打つ漁師と、舟をこぐ人々が描かれています。中景の海岸ではたくさんの人々が、塩を作っています。中景と遠景の間には、雲が描かれていますが、これは大和絵の伝統的な画き方です。この絵では、遠近法と大和絵の手法が、巧みに取り入れられているのです。

 江尻田子の浦略図は、葛飾北斎(宝暦10(1760)?‐嘉永2(1849)年)が画いた富嶽36景シリーズの1枚です。保永堂版の広重の東海道五拾三次之内シリーズとほぼ同じ時期の天保2(1831)年―天保5(1834)年に刊行されています。好評であったので、当初の36枚から10枚が追加で刊行されています。
 田子の浦の名前は、奈良時代の万葉の歌人である山部赤人の名歌「田子の浦ゆ うち出てみれば真白にぞ 富士の高嶺に雪はふりける」で広く知られています。しかし、山部赤人がどこでその歌を詠んだのかは、定かでありません。
 北斎の絵は、「江尻田子の浦」と表題がついているので、江尻宿の沖合の海での漁を画いているように思われるかもしれません。しかし、「双六」江尻の絵で示されているように、江尻からは、富士山の雄大な稜線は見えません。そこで、北斎が画いたのは、蒲原宿の沖合の海からという説があります。北斎は、場所を特定せず、富士山の雄大な長い稜線を描きたくて、図12-3を画いたものと思われます。
 富嶽36景の特徴は、風景の中で労働している人々が画かれていることです。図12-3の近景では、舳先で網を打つ漁師と、舟をこぐ人々が描かれています。中景の海岸ではたくさんの人々が、塩を作っています。中景と遠景の間には、雲が描かれていますが、これは大和絵の伝統的な画き方です。この絵では、遠近法と大和絵の手法が、巧みに取り入れられているのです。

図12-4.「双六」の沖津

 興津川は、田代峠から南下し、黒川、布沢川、中河内川などの支流を合わせて、駿河湾に注いでいます。流域面積は約120km2、幹川流路の延長は約22kmで、大河とはいえません。それゆえに、図12-4で描かれているように、旅人は、荷物を頭に置いて、徒歩で川を渡っていたのです。

図12-5.東海道五拾三次之内 奥津 興津川 (初摺)

 東海道五拾三次之内シリーズの奥津の絵では、一人の相撲取りが川越人足に担がれて、もう一人は馬に乗って川を渡っています。遠景の松林は、万葉集に詠まれた許奴美(こぬみ)の浜であるかもしれないと言われています。

図12-6.東海道五拾三次之内 奥津 興津川 (後摺)

 図12-6は、後摺りです。保永堂は、初摺りで大当たりしたので、その後の版では、手抜きして粗製乱造したのです。たとえば、図12-5の初摺りでは、朝焼けを示すために、水平線の上に紅色のぼかしがありますが、図12-6の後摺りでは、それがありません。つまり、紅色の色版を彫り、それを摺る手間を省いているのです。両方の絵を見比べて、後摺りは、どれだけ手抜きをしているのか、確認してみてください。皆さんは、保永堂版の東海道五拾三次之内シリーズは、名作ばかりと思い込んでいるでしょうが、実際には粗雑な後摺りも存在しているのです。

 東海道五拾三次之内シリーズの奥津の絵では、相撲取りが描かれていますので、相撲絵を見ていただきます。

図12-7.日本一江都大相撲土俵入後正面之図

 この絵を画いたのは、勝川春章(?‐1793年)です。春信と同じ時代に、一筆斎文調とともに、役者似顔絵の『絵本舞台扇』を画いて評判になりました。ですから、図12-7の相撲取りは、似顔絵として描かれています。また、この絵は、西洋から伝えられた遠近法を採用した「浮絵」です。春章は、役者絵や相撲絵の名人で、勝川派の始祖と呼ばれています。
 図12-7の絵では、天明6(1786)年の江戸における勧進相撲の土俵入りが描かれています。東方の力士の土俵入りが終わり、西方の力士が土俵に向かっています。東方の最後尾(黒色の力士)は、小野川喜三郎です。西方の最後尾の力士は、当時最強であった谷風梶之助です。谷風は、安永7(1778)年から8場所負けることが無かったのですが、新鋭の小野川喜三郎に敗れて、63連勝を止められたのです。これにより、相撲人気が沸騰したのです。この二人は、よいライバルとして競ったので、寛政元(1789)年11月場所の6日目に、二人そろって初めて横綱が授与されています。図12-7の絵が画かれた当時は、横綱はいませんでしたので、横綱の土俵入りはなかったのです。
 当時の有力力士は、大名のお抱えでした。谷風は仙台藩伊達家、小野川は久留米藩有馬家のお抱え力士だったのです。図12-5で描かれた二人の力士は、刀を差しているので、どこかの大名のお抱え力士です。彼らは、経済的に恵まれていたので、庶民のように徒歩ではなく、川越人足を雇って、駕籠や馬で沖津川を渡っていたのです。
 その当時の江戸における相撲興行は、春と秋の2場所だけでした。春は江戸、夏は京都、秋は大坂、冬は江戸で興行が行われたのです。図12-5で描かれた二人の力士は、西から旅をしているので、大坂での秋場所を終えて、江戸に戻るところなのです。なお、それぞれの場所の興行は、晴天の日だけの8日間と短かったのです。晴天の日には、図12-7で描かれているように、行事の向かいの正面には、貴賓のための桟敷席が設けられていましたが、たくさんの庶民も一緒に相撲を観戦していたのです。

 シーボルトは、12時頃に沖津に着いたのですが、ひどい雨のために増水している沖津川を、川越人足に担がれたり、徒歩で渡ることができなかったのです。川越ができないと聞いて、シーボルトは、「大へん満足した。こういう状況のお陰で私は幾らかの休養がとれ、これまで集めた天産物を調べたり整理したりする時間が持てたから」(『日記』、88頁)です。
 夕方には、上検使が訪れています。シーボルトの調査に関心をもった彼は、1時間以上も、シーボルトが仕事している部屋に留まっていたのです。「とくに彼は試薬を使った二、三の化学実験にはびっくりしていた。わざと鉄にシアン化水素酸を、石灰水に硝酸銀を加える若干の実験をやった」(『日記』、89頁)ので、その結果にびっくりしたのです。彼は、帰り際に「富士川というもうひとつ大きな川がありまして、貴方は多分そこでも休息がとれるでしょう」と述べたので、シーボルトはさらに十分に休息できるかもしれないと喜んだのです。

2.4月5日(水)―沖津からの出発

 朝、富士川が川止めであるとの情報を得て、シーボルトは、天産物や毛皮を整理したり、バロメーターを整備点検したりしていました。その時、使節は、ただちに出発すると言い張り、日本人の異議を無視して、出立することになったのです。シーボルトたちは、沖津川を渡って薩埵嶺を越えて由井宿に向かうことは、断念したのです。そこで、沖津川の上流を渡り、山手の道で倉沢へと向かいました。この山地では「たいていの家でミツマタから紙を作っていた。この山地の至る所に有用なこの美しい植物が作られていた」(『日記』、90頁)のです。ここで作られていた和紙は、駿河半紙と呼ばれていました。
 シーボルトは、ここで紙を漉いている人に出会いましたので、彼から紙の製造法を聞いています。そして、素朴な道具だけでの製造法を高く評価し、「日本では紙を作るのが簡単・・、だから紙をかなり多く消費するのは、それが容易にできることによる」(『日記』、91頁)と指摘しています。浮世絵が大量に制作できたのは、良質な和紙が、比較的安価で出回っていたからです。
 山地を越えて、シーポルトは由井宿を通り過ぎていますが、日記には、この宿についての記述はありません。

図12-8.東海道五拾三次之内 由井 薩埵嶺

 広重は、東海道五拾三次之内シリーズの由井では、薩埵嶺(さったみね)の風景を画いています。薩埵嶺は、「東海道の親不知」と呼ばれるほど険しい道でした。西から峠に到達した旅人は、晴天の時には美しい富士山を見ることができたのです。図12-8では、水平線の上に、ピンク色のぼかしが入っています。このぼかしで、この絵は、朝焼けの景色を描いたものであることが示されています。
 なお、シーボルトが参府旅行をした28年後の嘉永7(1854)年には、大地震が起きて、ここの海岸が隆起しました。それ以降、旅人は、薩埵嶺の下の海岸沿いの道を歩くことができるようになったのです。今では、この海岸沿いに、東海道本線、国道1号線および東名高速道路が走っています。

図12-9.「双六」の由井

 この絵では、薩埵嶺の東に位置する寺尾倉沢地区の「間の宿」が描かれています。そこでの名物は、サザエのつぼ焼きでした。この絵で描かれている家の一つが、藤屋・望嶽亭です。慶応4(1868)年1月の鳥羽・伏見戦いで敗北して江戸に戻った将軍徳川慶喜は、東征大総督府下参謀である西郷隆盛と交渉するために、山岡鉄舟(1836年‐1888年)を駿河に送り込みました。しかし、山岡は、薩埵嶺で東征軍の兵に追われて、藤屋に逃げ込んだのです。藤屋の二十代当主の松永七郎平が、隠れ部屋に匿ってくれたので、彼は難を逃れ、その後、駿府で西郷と会い、江戸城引き渡しについて交渉することができたのです。今でも、その隠れ部屋は保存されています。その部屋には、明治維新後に山岡鉄舟が、お礼として置いていった護身用のフランス式拳銃が保存されています。私は、2016年のツアーで、その部屋を訪れています。
 由井は、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠32軒という、小さな宿場でした。現在の名物は、桜えびです。本陣の跡地には、広重美術館があります。この美術館は、平成6(1994)年に由比の町長の発案で創設されました。広重の名前を冠した最初の美術館で、現在は静岡市が運営しています。その他には、山形県天童市に「広重美術館」、栃木県に「那珂川町馬頭広重美術館」、岐阜県恵那市に「中山道広重美術館」があります。それぞれ、広重の名品を所蔵していますので、それらが展示されるときに、見にゆかれるとよろしいでしょう。
 シーボルトは、その夜は、蒲原の宿で泊まっています。次回は、蒲原を出発して、沼津に到着するまでの旅を書かせていただきます。

筆者(横山 実)のプロフィール

1943年川崎市に生まれる。1978年から浮世絵の収集を始める。
1980年に川崎浮世絵協会の設立に参加する。
その時に、世界的に有名な浮世絵収集家である斎藤文夫さんと知り合う。
現在は、國學院大學名誉教授(元法学部教授)、国際浮世絵学会理事

引用

シーボルト参府旅行中の日記
シーボルト 著 / 著齋藤信 訳
刊行年月:1983年01月  思文閣出版

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