「あっ、これって?」
平な黒塗りのお椀の底に、キラリと光る小さな黄金色があった。大きさは2mm四方ほど。それは砂金。今から10年以上前になるが、気仙沼市北部にある鹿折(ししおり)金山跡地を流れる小川で行った体験講座を取材した際、私も挑戦。川砂を掬い、水をゆっくりと流す作業を繰り返すことわずか10分ほど。小粒以下の物とはいえ、黄金の輝きを手に入れることができた。
採算が全く合わないため、現代では行われてはいないが、気仙沼地域では今でも砂金を簡単に手に入れる場所が現実にあるのだ。
奥州・藤原氏の栄華を支え、あの中尊寺金色堂を彩る黄金は、気仙沼の本良(現・本吉町一帯)などで採取した砂金で賄われた。
意外と知られていないが、日本で初めて金が採取されたのは現在の宮城県涌谷町。仙台市の北東約50km、気仙沼市の南西約70kmに位置する小さな沢のそばに建立された黄金山神社があり、一帯が跡地として残る。
時は奈良時代。今から1275年前の749年、採取した砂金900両(13kg)が朝廷に献上され、東大寺の大仏の鍍金(ときん)に使われた。そう奈良の大仏だ。金は大陸から輸入していたが、絶対的な量が少なく、大仏完成が危惧されていた最中での吉報であった。
それまで日本では金は取れないとされていただけに、時の聖武天皇は大変に喜び、元号を「天平」から「天平感宝」と改めたほどだ。歌人の大伴家持は万葉集に「天皇(すめろき)の御代栄えむと東(あづま)なる陸奥山(みちのくやま)に金(くがね)花咲く」と詠じている。
その後、みちのくを朝廷や、時々の政権が金を探し歩いたことはさまざまな歴史書や、地域の伝聞などに多く残る。
日本産金史の嚆矢であった涌谷での砂金採取。その最大の金字塔こそが、奥州藤原家が現在の岩手県平泉町に築いた黄金郷であったのだ。
そして。時は明治時代。歴史に名を残す鹿折金山から、とてつもない金が取れた。日露戦争のさなかの1904(明治36)年、重さ2.25k、金の含金率83%というまさに「金塊」と呼ぶにふさわしい金鉱石が採掘されたのだ。金鉱脈からこれほど大きな自然金の塊が産出することは世界的にも皆無に近く、「モ ンスター・ゴールド」、まさに「怪物金」 と称され、同年、米国セントルイスで開催された万国博覧会に出品され、世界の耳目を集めた。まさに、かつての「黄金の国ジパング」を世界の人々に想起させたのは想像に難くない。
鹿折金山はまさに稀有な金鉱脈に恵まれていた。鉱石 1 tあたり50gほどの金(含有率0.005%、2万分の1)が あれば「極めて良質」な鉱山とされているが、鹿折金山の場合は平均にして約20%。これは良質な鉱山の4000倍という、まさに桁外れの含有率だった。
「モンスター・ゴールド」が、まさにごろりと掘り出された驚きが世界中に広まる中、これを大いに喜んだのが明治政府であった。
司馬遼太郎の代表作「坂の上の雲」には、時の首相桂太郎が「仙台の北の気仙沼で含金率60%の金山が発見された」「これで軍費は大丈夫だ」と、ロシアとの熾烈な戦いを繰り広げていた最前線の総司令官大山厳に伝えたくだりがある。
言葉は悪いが、「見せ金」として、実際に逼迫していた戦費の調達に「一役買った」と指摘する歴史研究者は少なくない。日露戦争は、まさに薄氷を踏むが如き戦いだが、有色人種であり、急激に近代化を遂げつつあったとはいえ小国であった日本が、列強、しかも白人に勝ちを収めたことの意義はとても大きい。戦争賛美では決してないが、歴史を俯瞰すれば、世界史的にも大きな転換点でもあった日露戦争。そこに我が故郷・気仙沼が一枚かんでいたとしたら、痛快なことである。
金塊はその後、行方不明になったが、6分の1の塊の存在が確認され、現在は産業技術総合研究所(茨城県つくば市)に保管されている。
鹿折金山跡地に整備された鹿折金山資料館には、博覧会展示の際に撮影された写真を基に当時のサイズを想像して製作したレプリカが展示されている。
当地方及び近隣が、「黄金の国ジパング」の名を世界に知らしめた。気仙沼からわずか50kmの場所にある平泉の中尊寺には松尾芭蕉が詠んだ「五月雨の 降り残してや 光堂(ひかりどう)」の句碑がある。
2011年には毛越(もうつう)寺などとともに「平泉の文化遺産」として世界遺産となった。
藤原氏に匿われながら、非業の死を遂げた源義経。鹿折金山跡地を流れる沢にある「源氏の滝」は斜瀑(しゃばく)で、高さ(長さ)18m。義経の愛馬の産まれ育った縁を伝えるとされる。気仙沼地方には義経にまつわる伝説が多く残る。
黄金郷と、歴史のひだに潜む、さまざまな物語に想いを巡らす。縄文の時代を含め、東北にはまだまだ多くの宝が、ひっそりと眠っているのかもしれない。
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