見角 悠代(みかど はるよ)・音楽家への軌跡(3)

取材:2023/12/08(SAAL194 にて)

オペラ歌手、音楽家として活躍中の見角 悠代さん。

幼少期から、幾つもの出会いを重ねて舞台で活躍するまでを語っていただきました。
その声と表現力で観客を魅了する音楽家はどのようにして生まれたのか、その軌跡をお楽しみください。

編集長:細田

音楽大学では歳も知識も先輩な同級生がたくさんいました。藝大を3度挑戦してから入学してきたとか、一般大学へ行ったもののやっぱり音楽がしたくて編入してきたとか、そんな人がたくさんいて、実技の面ではもちろん、意識の上でも私は断然劣等生でした。付属の高校から上がってきた同級生たちは、聞いたこともない作曲家の何語かも分からない歌曲を歌ったりしていて、その上、たとえばオーケストラでベートヴェンの交響曲第7番を「ベトしち」などと略したりするのと同じように歌のことを話すので、まるで分らなくて会話に加われないこともしばしばありました。

それでも私が歌い手になれたのは、篠崎義昭先生に出会ったからです。この師匠との日々が、歌い手としての私を育ててくれたのです。

レッスンの日々は、順調ではありませんでした。何しろ、知識も意識も、もしかしたら当時はやる気も少なかった私。Rを発音するのに、いちいち悪態をついて練習しなければならなかった私。実技試験では、そもそも歌える曲が少ない中から曲を選ばなくてはならず、当然成績はいつも落第ギリギリ。でも師匠は「うたを成績表にするのは難しいんだから。」と、がっかりすることも、周りと比べることもなく、ゆっくりと指導してくれました。同級生なら「そんなこと教授に聞いちゃうの?」ということも、いつも懇切丁寧に教えてくれました。ひとつの曲がなかなか歌えるようにならなくても、何度でも熱心にレッスンをしてくれました。

師匠への信頼は揺るぎないものになり、報いたい気持ちが、私を歌へと向かわせました。

大学ではもう一人、大切な人に出会います。伴奏者です。伴奏を専門の先生にお願いできれば一番ですが、実力も乏しく、時間の半分以上を発声練習に費やすようなレッスンにそのような先生をつき合わせるのは申し訳なく、大体、皆がピアノ科の友達にお願いするのですが、地方の進学校の出身の私にはピアノ科の友人は一人もおらず、試験前に困りました。そこに声楽科の友人の紹介で現れたのが、このみさんでした。山形の高校の音楽科から音大へ進んできたこのみさん。彼女が、ピアノが上手な「だけ」の人だったなら、私の成績はなかなか上がっていかなかったし、その後の数々の「やらかし」を乗り越えていけなかったに違いありません。

4年生まで低空飛行を続けていた私ですが、演技法という授業があり、お芝居が苦にならず、むしろ得意であることが分かりました。するとある時、大学院の先輩の出演するオペラに助演することになりました。歌というよりは、その演技力とか存在感みたいなものを認められて頂いた役でしたが、師匠との地道なレッスンに少しずつ達成感を覚え、周囲に追いつくように何とか知識を身につけ、大学合唱の大きな舞台なども経験し、少しずつ楽しくなっていた私が「舞台に立つ」ことに憧れるきっかけには十分でした。出演された先輩たちが「歌が好きで好きで仕方ない、どうしてもオペラがやりたい」という熱意に溢れた方々だったことも大きかったかもしれません。

1999年10月09日 第6回東京音楽大学大学院オペラ(ハイライト)「フィガロの結婚」のバルバリーナ役
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