【連載】ギッチョムの気仙沼だより③・震災

16mの高台にあった当時の女川町立病院駐車場。
消防ポンプ車の上に乗用車が載っている。高台より2m高い津波で、避難してた車ごと流された人もいた。
翌日、ポンプ車から燃油を抜き取っていた。長い物資不足との戦いが既に始まっていた。
2011年3月12日午前7時10分ごろ。

 「ここまで被害が甚大だとは…」。みんなが口をそろえる。元日に発生した能登半島地震。地震、火災、津波。自然の猛威が複合して被災地を襲った。13年前の東日本大震災を経験した身として、その惨状と、今後、長く続くであろう復旧・復興への道筋を想像するだけで、暗澹たる気持ちに陥る。
 しかし。「何もかも無くなった」と天を仰いだあの日、ただただ茫然とし、無力感を抱えたあの日から、人々はあがきながらも地面を這い、そして二本の足で辛うじて立ち上がり、やがて一歩、また一歩と前を向いて進み始めた。多くの仲間と励まし合い、多くの人たちの助けを受け、その結果、多くの人々が、かつてそうであった「普通の生活」を取り戻すことができた。
 多くを失い、膝を屈していた、あの日から1年、2年と積み重ね、気仙沼人は「海とともに生きる」という合言葉を胸に刻みつつ、ある意味では前より深く故郷を愛し、そして誇りを持ち、多くの人と交流する街をつくり続けている。
 能登半島が今後歩む道は、気仙沼とはまた違うだろうが、必ずや復旧、復興を果たすと信じている。そして私たちも、東日本大震災で得た教訓と復興へ向けたお手伝いを産学官民挙げてしていきたい。日本人はいつでもそうやって復活してきた。底力を信じたいし、自助・共助・公助が復興の歯車を力強く回すことを願ってやまない。

 2011年3月11日午後2時46分。私自身は、宮城県で気仙沼市の南約80kmに位置する石巻地域の一つ、女川町で取材中だった。最大震度は今回の能登半島地震と同じ7。マグニチュードは9.0。海底が震源地だったため、大津波が押し寄せた。女川町には地震発生から48分後に18mもの大津波が押し寄せた。
町役場の屋上に職員と近隣住民ら70人が避難していたが、津波は屋上まで後10㎝の高さまで迫った。後で知ったのだが、町役場は海抜6mの場所にあり、そのちょっとした高さで、私たちは助かった。
 女川町の人口は当時1万人だった。犠牲者は827人。死亡率8.3%は、東日本大震災の被災地で最も高かった。「奇跡の一本松」の岩手県陸前高田市で7.7%、女性職員が津波が押し寄せる中、町民に避難を呼びかけ続け、自らは犠牲となった南三陸町で4.8%、気仙沼市や石巻市には山間部も多いため2%台前半と低くなる。
 「8.3%」。町民の12人に1人が犠牲になった。そこには女川町特有の理由がある。それは平地が少なく、町役場がある中心部の集中して人が居住しており、そこが容赦なく襲われた。他の自治体もそうだが高齢化率も高く、津波到達まで約50分というのも、一度避難した人が再び家に戻るという「魔の時間」となってしまった。
 18mの津波は5階建てのビルの高さに相当する。私は女川町がたった10分で全てを破壊される様を、なす術もなく見つめていた。押し波で土台から剥ぎ取られた家が漂う。やがては引き波で全てが、煎餅でも壊すようにバラバラに引きちぎられ、海の沖へ、底へと引き摺り込まれていく。ガスボンベがロケット花火のように飛び交い、破断した電線があちこちで火花を散らしていた。「嘘だろ」と口にするのが精一杯で、現実感が全くなかった。
 カメラでその様子を撮影したが、シャッターを切るという日常行為のみが、私の正気を保ってくれていた。やがて降り出した春先特有の水分を多く含んだ冷たい雪。舞い散る雪でピントが狂う。普段ならすぐマニュアルにするが、そんな簡単なこともできなかった。気が動転すると些細なことでも途端にできなくなる。まさにそんな状況だった。
 津波が引いた後、役場の裏山にあった民家に避難した。雪で濡れたズボンが冷たく、また、幾度と襲った余震で一睡もできなかった。
 携帯電話も使えない。唯一、携帯ラジオが避難した家にあり、耳を傾けた。
 「気仙沼で火災が発生。火の海になっている」「えっ?」想像すらできない。
 自宅を津波が破壊する様子を見ていた主婦。仙台地域にある海岸で100を超す遺体と見られる人影を発見したという報道に、こう呟いた。「海水浴シーズンでもないのに、なんでだべ?」。そう、みんな、あまりにも過酷な体験に感覚が麻痺していた。

 当時、私は石巻市に単身赴任していた。気仙沼の自宅は高台にあるが、女房とは地震直後にメール交換して以来、互いに安否を確認できたのは震災後4日目だった。
 震災直後から、被災地をエリアとする地方新聞記者として、取材に奔走したと言いたいところだが、ほとんど全ての記者の車が津波で水没した。私の車も女川湾に消えた。どうにか3台の車を入手して、手分けして取材をしたが、地元記者であり、その多くが大なり小なり被災していた。肉親を失ったり行方不明だった人、家が全壊し避難所から通う記者もいた。
 大手マスコミが大量に人員を送り込み、次々と意欲と体力に満ち溢れた記者やカメラマンらが取材合戦を繰り広げる中、私たちは、給水車や炊き出しなどの情報、そして亡くなったり行方不明者の名前の掲載などに多くの時間を割いた。中央マスコミの旺盛な取材ぶりを見ながら、日々、疲弊していく自分たちを惨めに感じたこともある。

 そんな折、私に転機が訪れる。
 震災から半年ほどが経ったある日、石巻市内の幼稚園から電話があった。「まだこんな状況なのですが、運動会を開くことにしました」と。幸い震災で犠牲になった園児はおらず、父母らの了解も得たという。何より「運動会の練習をしたら、今までどこか遠慮がちだった子供達に笑顔が戻った」という。「まだ半年で苦しんでいる人も多いのですが、取材は可能でしょうか」とおずおずとした口調の訳が、痛いほど伝わってきた。
 デスクと相談したが、「淡々といきましょう」という結論を得て、取材へと出向いた。当日、園に到着するとかけっこの真っ最中。園児たちの可愛い声援が聞こえる。幼稚園の運動会。地方新聞にとっては、毎年の恒例、季節感を盛り込んだ記事で、私自身も何度となく取材し、書いてきた。口を真一文字に結んでゴール目指し、頬を上気させて走る園児。「いつものように」カメラを向ける。その途端、視界がぼやけた。気が付いたら両目から涙が溢れていた。「いつもの」「どこでも同じ」「日常の」一コマ。
 失って気づく「普通の日常」「些細な幸せ」。
 まさに地元新聞にとっての原点だ。この瞬間を私は忘れない。中央のマスコミと、私たち地元メディアの役割は全く違う。全国的には、全県的には「ニュース」ではないことも、私たちの故郷は、こうした日常の積み重ねで成り立ち、それを取り上げることにもきちんとした意味があるのだ。
 行政、産業界の動きを取材するのに対し、どうしても軽く扱うことが多い、数多の日常的活動。それを決しておろそかにしてはいけない。そんな当たり前のことを忘れていた。
 震災で失われた街角を撮影した1枚の写真、40年前の農村の田植えの様子、漁港にひしめく木造漁船。その時々においては、何気ないものが、時やさまざまな事象を経て、得難いものになる。その集合体が歴史になり、風土を形作る。そのことを思い知った瞬間だった。

 能登半島地震の傷跡は深い。復旧すらまだまだだ。さらに高齢化、限界集落化が進む中の将来ビジョンなどもこれからだ。

 ただ気仙沼の復興街づくりで、とてもいい教訓になったのは、計画づくり、実施にあたり地元住民、商店者らが「当事者」として、現実と理想の間で悩み、苦労を重ね、それでも官民が協力し、汗を流した。専門家もオブザーバーではなく、仲間に引きずり込んだ。この「当事者」意識があればこそ、内湾の風景を最大限殺さず生かしたフロントサイドの再生ができた。
 「当事者」として頑張る。その「自助」が一番大切だと感じている。
 そして。今後、必ずや南海トラフ、首都直下型地震は起きる。いや、気仙沼市とていつまた大津波が来ないとも限らないのだ。
 まさに今、東京のど真ん中にある雑居ビルのエレベーターに数人が乗り込んでいる。まさか1秒後に大地震が発生し、3日間も閉じ込められるとも知らずに。みんな手ぶらだ。バックの中にはパソコンはあっても、水のペットボトルはない。
 今、あなたはどこにいて、何をしているのだろう?地震、津波が来たらどうすればいいのだろう?この問いは日本人ならば、常に目の前に置いておきたい。

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