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【連載】ギッチョムの気仙沼だより⑥・リアスの方舟
リアス・アーク美術館 被災したモノたちの展示。このコーナーは自由に写真撮影ができる 「いただきます」「ごちそうさま」…。「いってきます」「ただいま」…。 そうした日常の会話が、聞こえてきそうだ。しかし、目の前にあるのは、2011年3月11日に気仙沼地方を襲った大津波により被災し、私たちの生活を支えていた「物」から、本来の使用ができない「がれき」へと化した「モノ」たちだ。 気仙沼市にあるリアス・アーク美術館の常設展示「東日本の記録と津波の災害史」には、美術館の学芸員らが約2年間にわた... -
【連載】掌の物語⑥ あの時の約束・樹 亜希
今から考えると、植村くんは私のことはあまり好きではなかったのではないかと感じる。どこへ行く、何を食べる、何を買う、それもこれもすべて私が提案しないと植村君は何も自分では、決めることなどできやしない。それが植村君だった。 私は一人っこで、兄妹はいない。 一方、植村君には弟と妹がいる。 彼の弟は東京大学現役合格、妹は彼の母親が溺愛して、わがまま三昧というパワーバランスの中で、いつしか、自分の主張が何も聞き入れられないことが当たり前になり、その表情にもあるように、いつも死んだ... -
一枚の写真 「彩り」・・太宰 宏恵
花が見られる場所には、まるで蝶や蜜蜂のように人も集まるように思えます。そうした人々をレンズ越しに眺めると、とても幸せそうに見え、人間が自然の一部であることに気付かされます。グレートーンだった冬から、色彩豊かな季節へ変化していくこの時期、人の心の中も一緒に彩られていくのかもしれません。 -
【連載】掌の物語⑤ 転生・樹 亜希
あなたは何回目? うわぁ、やっちまった。 思った時と、その後数秒のほんの瞬間に、走馬灯なんかなかった。とにかくこの状態からどうしたら逃れられるのかなんて知ったこっちゃない。 目が覚めると黄色い菜の花畑を上空から見ていた。 あ、私はバイクの単独事故で、小雨のなかを横断歩道でスリップして転倒したところまでは覚えていた。黄色い菜の花ににおいはなくて、どうして地上からではなくて、ドローンのような視点なのか、わからない。 隣から声がする。「気が早いね」「そうですか?」「お互いにさ... -
【連載】写真短歌(4)・・川喜田 晶子
春湖(はるうみ)の抱けるかぎりの現世(うつしよ)の孤独の影に筆浸さまし -
一枚の写真 「春の訪れ」・・太宰 宏恵
梅が満開となり、色鮮やかな花の姿や雛人形を目にすると、いよいよ春の訪れを感じます。新しい出逢いや活動、環境など、変化の時期でもありますが、それぞれが美しく開花していきますように。そんなことを考えながらの一枚です。 -
【連載】ギッチョムの気仙沼だより⑤・港まち・気仙沼
港町・気仙沼を代表する光景の一つに挙げるのが、岸壁を埋め尽くす漁船だ。 船の着岸といえば、岸壁に横着けするのを頭に思い浮かべると思う。気仙沼港でもイカ釣りや定置網など小型〜中型船は横着けしている。 ただ、こう言うと「あれ?漁船って、縦着けじゃないの?」と異論も聞こえてきそうだ。確かに、沿岸漁を主とする、いわば「浜」の岸壁には、船外機付き小船をはじめ、縦着けが多い場合もある。理由は簡単で、縦着けの方が、場所を取らないからだ。 しかし気仙沼魚市場の桟橋や内湾の一部などでは、... -
【連載】掌の物語④ 霧の朝と明日の天気・樹 亜希
目が覚めたときに、寝室のカーテンを細く引くと外は雨で煙っていた。そのまま、鈍い頭の痛みにぼんやりとしていた。それでも時計のデジタル数字は確実に進んでいく。 ベッドから腰を上げてもう一度、外を見た。 あの映画と同じ光景が広がっていた。ミストというアメリカの映画だったと思うが、それを思い出して胸がざわざわした。この霧の向こうには行けないのではないだろうか。不条理劇の映画の再現ではないと信じたくて、窓の外を見るのはやめた。 二条城の壕に植えられた木々はおろか、その向こうの街並... -
見角悠代ソプラノコンサートVol.2「春に奏でるモーツァルト」4月14日(日)
見角悠代さん、ソプラノコンサートのご案内です。お近くの方はもちらん、少し時間をかけてでも聴く価値のあるコンサートになること間違いなしです。 プログラム「モーツァルトの百面相」/ 夜の女王のアリア 「復讐の炎は地獄のように」 ケルビーノのアリア「恋とはどんなものかしら」/ ヨハン・シュトラウス「春の声」他 日時:2024年4月14日(日) 13:30開場 14:00開演 全席自由3,000円(前売り2,500円)会場:東吾妻町コンベンションホール(東吾妻町役場) 〒377-0801群馬県吾妻郡東吾妻町大字原町1046... -
見角 悠代(みかど はるよ)・音楽家への軌跡(2)
第2回 運命の人が導いた音楽への道 高校は進学校だったので、受験希望校を書く紙とはずいぶん早くから何度も向き合っていた気がします。周囲の影響もあって、音楽への興味はほとんどなくなっていた私ですが、それでも夏期講習の後からはいくつかの一般大学名を書いた下に「音楽大学」とだけ書いていたように記憶しています。 やがて、また母によって運命の人の元へ導かれるのです。自分が音楽の道を歩いてきて、姉は美術大学へ進んだので、母はあるいは私を音楽の道に進めることを諦められなかったのかもしれませ...