【連載】シーボルトの江戸への旅路 No.9―桑名から吉田(現在の豊橋)までの旅―横山 実

1.3月28日(火)―桑名からの午後の出発

 シーボルトは、11時頃に桑名の城外の町に到着して、「鐘の鋳造や、その他の鉄製品を見物」(シーボルト著・齋藤信訳『シーボルト参府旅行中の日記』(思文閣出版、1983年)72頁。以下、この本は、『日記』と略記します)しています。徳川四天王の一人であった本多忠勝は、慶長6(1601)年に桑名の初代藩主になり、桑名の町を改造するために、大胆な町割りを行いました。その時、鋳物師を招き入れたので、桑名では鋳物業が勃興したのです。
 その後、シーポルトは、若い神官に出会っています。彼は「禰宜と呼ばれ、白い服を着て、漆塗りの冠・・をかぶり、風変わりな鉾という・・ものを持っていた」(『日記』、72頁)のです。
 シーボルトは、桑名で昼食をとり、その後、「城の近くで苦労して正午の<太陽高度の>観測をする機会を見出した」(『日記』、72頁)のです。

図9-1.東海道五十三駅道中記細見双六で描かれた桑名

 廣重が画いた東海道五十三駅道中記細見双六((以下においては、「双六」と略称します)では、廃城令で取り壊される前の威風堂々とした桑名城の傍らを、風を受けて揖斐川河口を走る2艘の大型帆船が描かれています。

図9-2.東海道五拾三次之内 桑名 七里渡口

 東海道五拾三次之内シリーズの桑名の絵では、七里渡口という題名が記入されています。桑名から熱田神宮の門前町の宮までは、海路で7里(約28キロメートル)の距離があったので、その間で客を運ぶ帆船は「七里の渡し」と呼ばれたのです。この絵では、揖斐川の河口に突き出た城が描かれていますが、それが桑名城です。帆走してきた2艘の船は、帆を降ろし、櫓の右奥の船着場にゆっくりと向かっています。私は、國學院大學の保護者会が津で開かれた時、この絵の船が入っていく先の船着場に行っています。
 桑名宿と宮宿は、東海道屈指の渡船場として賑わい、沢山の旅籠がありました。しかし、桑名には、阿蘭陀宿がありませんでしたので、昼食後すぐに船に乗っています。船は城の傍らを通り過ぎましたが、シーボルトは、すばらしい眺めを楽しむことができたのです。
 船は宮宿ではなく、「木曽川をヤズJazuに向」(『日記』、72頁)ったのです。そして、その夜は、Jazu(輪中の場所だと思われます)で宿泊したのです。
 輪中とは、濃尾平野の3つの大河川の流域にみられる集落です。その集落は、自然堤防(河川の流路に沿って形成される微高地)にあり、そこで農業が営まれていました。大河川の氾濫から身をまもるために、堤で囲まれた集落では、人々は水防のために一致団結して活動していました。

2.3月29日(水)―Jazuからの出発

 春の素晴らしい天気に恵まれて、夜明けとともに出立しています。まもなく、よく手入れのゆきとどいた橋を渡って、日光川を越えています。この川の西側は、輪中地帯ですので、「堤防があり、川は稲田の面よりもずっと高い川床を流れている」(『日記』、73頁)のです。「真すぐに並行して延びている川岸には規則正しく木が植えてあり、私はオランダの運河を思い出した」(『日記』、74頁)のです。同時に、シーボルトは、厳しい旅行スケジュールをぼやいています。「この平野で、疲れを覚える旅の途中、研究をすすめるために元気を回復できるような休養がとれなかったのは、まことに残念なことだった。急いで江戸に到着しようという使節の要請で、われわれはほとんど毎日十里以上もすすんだ」(『日記』、74頁)と、ぼやいていたのです
 シーボルトは、経度を測る時間をかせごうとして、ビュルガーとともに、使節の一行よりも二、三時間先行しました。ソノツSonots村の近くの一里塚の傍らで、測量のよい機会を見つけています。その後で、「舟で砂子川を渡ったが、その幅広い川床には砂の洲が所々にあって、・・数千のノガモが集まっていた。・・城主の命令でこの辺りは保護区になっている」(『日誌』、74頁)というのです。尾張藩の城主が主催する鴨狩猟のために、この場所が保護区に指定されていたのでしょう。
 その後で、歩度を早めて、11時半頃に宮宿の町端に到着しています。そこでは、山岳地方で伐採され、木曽川を筏で運ばれてきた木材、主に、ヒノキを貯蔵する大きな倉庫が存在していました。シーボルトは、急いで植木屋の庭を見学し、12時数分前に宮の指示された宿舎に到着しています。
 直ちに太陽の高度を測り、宿を訪ねてきた日本の友人や門人と会っています。尾張藩御薬園御用を勤めていた草本学者の水谷助六(1779年-1833年)、草本学者・医学者であった伊藤圭介(1803年-1901年)、草本学者で尾張藩医であった大河内存真(1796年-1883年)たちが、訪ねてきたのです。シーボルトは、特に、水谷助六が持参した「二冊の肉筆の小さい画帳に・・注目した。それは日本の植物を集めた絵で、すべて正確にリンネの名称で同定し分類してあった」(『日記』、76頁)のです。
 宮宿は、桑名への七里の渡しの拠点でしたので、旅籠の数は247軒と、日本一大きな宿駅でした。ですから、これまでの使節は、宮宿で一泊していたのです、シーボルトは、訪ねてきた友人や門人と、宮でゆっくり話ができると思っていました。しかし、旅を急ぐ商館長のステュルレルは、すぐに出立することを決めたのです。そこで、訪ねてきた友人たちは、次の宿泊予定の池鯉鮒宿まで、一行についていくことにしたのです。

図9-3.東海道五拾三次之内 宮 熱田神事

 シーボルトは、宮宿を急いで出立したので、熱田神宮を訪れていません。広重は、東海道五拾三次之内シリーズで、熱田神宮の神事を画いています。
 熱田神宮は、三種の神器の一つである草薙剣を祀っています。伊勢神宮、岩清水八幡宮に次ぐ「日本第三之鎮守」です。毎年五月五日の「馬の塔」の祭礼では、奉納された馬を競争させる馬追いの神事が行われていました。広重は、その神事を画いていますが、絵の左上では、熱田の住民が、神を迎える火を焚いています。二組の氏子の若者たちが、神が降臨した二頭の馬をそれぞれ追っています。奥の組の若者たちは、藍染めの半纏を着ており、手前の組の若者たちは、有松絞の半纏を着ています。勇壮な神事でしたが、今は行われていません。
 シーボルトは、宮宿で受け取ったすべての天産物を籠にのせ、池鯉鮒宿までの道中でそれを一覧し、「私が知っているものを同定する仕事で午後の時間のすべてを使った」(『日記』、76頁)のです。ですから、日記には、通り過ぎた鳴海宿についての記述はありません。
 シーボルトは、駕籠での旅について、日記で書いています。それによると、駕籠の拍子のとれた動揺に慣れれば、駕籠の中で、硬い鉛筆で字を書くことができるし、本を読むこともできるのでした。シーボルトは、駕籠の中を研究室のように使うことがあったのです。その時は、必要な書籍や機械などを持ち込んだので、それは「駕籠かきにとっては何より不満であった」(『日記』、77頁)のです。

図9-4.東海道五拾三次之内 鳴海 名物有松絞

 廣重は、宮宿の次の鳴海宿は、画いていません。図9-4で描かれているのは、鳴海宿から1里東に位置する、「間の宿」の有松でした。そこは、絞りが名物でした。有松での絞り生産は、慶長13(1608)年に、竹田庄九郎たちが始めています。尾張藩が有松絞りを藩の特産品として保護し、竹田庄九郎を御用商人に取り立てたことよって、その生産は隆盛となったのです。有松で生産された絞りの手拭や浴衣などは、旅人の土産物として買われましたので、有松絞は全国的に知れ渡りました。
 有松は、延享5(1748)年の大火で、村が全焼してしまいました。住民は絞りの生産で蓄財していたので、復興に当たって、葺屋根は瓦葺に、木造の壁や軒裏は塗籠としたのです。二階建ての豪華な蔵造りの店が立ち並んでいる景観は、名古屋市の町並み保存指定第一号として、また全国町並み保存連盟の発祥地として知られています。私は、國學院大學の地方入試や保護者会の責任者として名古屋に出張した時、2回ほど有松を訪ねています。
 図9-4で描かれている店は、いずれも、木綿に絞り染めをした浴衣や手拭などを売っていたのです。手前の店の暖簾には、広重の「ヒロ」の組み合わせによる家紋、版元の竹内および新板の文字が見られます。女性が絞りを好んで買っていたのを意識したためか、この絵では、二組の女性の旅姿が描かれています。供を従えて旅する手前の裕福な女性は、駕籠に乗り、後ろの女性は馬に乗って、有松の店の前を通り過ぎています。幕末には、裕福な女性は、伊勢詣でなどの名目で、旅を楽しむようになっていたので、広重は、二組の旅姿の女性を画いたのです。
 有松絞は反物としても製造され、それは豪華な着物に仕立てられていました。それを示しているのが、図9-5です。

図9-5.青楼美人六花仙 静玉屋志津加

 大手の版元である永寿堂から出版された青楼美人六花仙シリーズは、鳥文斎栄之(1756年-1829年)が画いたものです(歌麿、写楽、長喜が画いた絵を売り出した蔦屋重三郎は、新興の版元です)。栄之は、500石取りの旗本でしたが、浮世絵を画きたく、隠居して絵師になったのです。寛政期の初めには、歌麿に匹敵する美人画絵師でした。彼が描く遊女は、図9-5で示されているように、気品がありました。
 「青楼美人六花仙」の「六花仙」とは、「六歌仙」をもじったもので、吉原の代表的な花魁6人を、花にたとえたのです。それぞれの花魁には、その美を象徴する花が、コマ絵で描かれていますが、静玉屋のお抱えの花魁である志津加の絵では、撫子が描かれています。志津加は、しごき帯を締め、両膝を立てて悠然と座しています。肩からの袖と、着物の裾には、空摺りによる有松絞の凹凸の模様が見られます。花魁を引き立てるために、背景は「黄つぶし」という技法が用いられています。
 ところで、この絵には、図5-3.「大阪新町東扇屋 つかさ太夫」と同様に、「極」の印が見られます。松平定信が、寛政の改革で風紀粛清を行いましたが、その一環として、寛政2(1790)年に浮世絵の検閲が始まったのです。版元は、絵師に画かせた版下絵を、行事(または名主)に提出し、発行許可を認める「極」の印を押してもらうのです。そして、その印が押された版下絵で、版木を彫り、それを摺って、販売したのです。検閲の印を押す改印制度は、時代によって「印」に変遷がありました。
 鳥文斎栄之は、鳥居清長と喜多川歌麿との間に挟まれていたので、これまで、世間では注目されませんでした。そこで、2024年の冬に、世界で初めての栄之浮世絵展と銘打って、千葉市美術館で「鳥文斎栄之展 サムライ、浮世絵師になる!」が開かれました。そこでは、山口県立萩美術館所蔵(浦上敏朗旧蔵)の「青楼美人六花仙 静玉屋志津加」が展示されていました(鳥文斎栄之展のカタログの60頁にその絵の解説があります)。「青楼美人六花仙」シリーズは、栄之の代表作の一つなのです。
 なお、水野忠邦が主導した天保の改革(1841年-1843年)では、綱紀粛正と奢侈禁止が命じられました。春画や歌舞伎役者絵とともに、遊女、芸者などの美人画を描くことが禁止されます。シーボルトが参府したのは、その改革が始まる15年前で、文化が爛熟していた頃だったのです。
 シーボルトは、駕籠に乗って、池鯉鮒宿に到着し、宿舎で「夜更けまでの時間を友人たちと過ごした」(『日記』、77頁)のです。「日本の植物誌が著しく増加した理由の大半は、この人たちと提携したお陰なのである。なぜならば、M.六助、伊藤圭介およびO.存真は、この時以来、私が<日本を>退去する時まで」(『日記』、78頁)、シーボルトのために、天然物を探索したり、写生したりするなどの仕事を熱心に行ってくれたからです。

図9-6.「双六」の池鯉鮒

 江戸に幕府が開かれて、鳴海から岡崎に至る道での旅人が増えたので、池鯉鮒は、東海道の宿駅の一つとなりました。この土地の知立神社の池には、明神の使いとみなされた鯉と鮒が多く住んでいるところから、地名が「池鯉鮒」となったといわれています。街道に沿った細長い宿駅で、毎年4月末から5月初めには、宿場の東のはずれで馬市が催され、近郷から人々が集まり賑わいました。そこで、広重の保永堂版の東海道東海道五拾三次之内シリーズでは、池鯉鮒宿の絵では「首夏馬市」が描かれています。

3.3月30日(木)―池鯉鮒からの出発

 6時に池鯉鮒を出発しています。岡崎の町の手前には、矢矧川が「所々に砂洲のある幅の広い川床を流れていて、ひとつの橋が架かって」(『日記』、78頁)いたのです。

図9-7.「双六」の岡崎

 矢矧川の向こうに見える岡崎城は、徳川家康の生誕地です。ですから、矢矧川に架けられた矢作橋は、徳川幕府が成立した直後の諸大名の「天下請負」として、幕府によって架けられましたが、それは東海道で一番の大橋でした。そこで、シーボルトは、この橋に興味を持ち、観察しています。彼の観察によると、この橋は「日本で最も珍重されているケヤキとヒノキで作られ、たいへん頑丈な橋で・・私が測ったところでは、長さは930パリ・フィート・・幅はざっと見積って30フィート」(『日記』、78頁)だったのです。岡崎の町はかなり大きく、道路は清潔で、たくさんの店がありました。そこでは、「職人のうちにたくさんの桶屋や鍛冶屋がいるのに気付いた」(『日記』、78頁)のです。
 シーボルトは、岡崎で昼食をとり、ただちに出発しています。2時頃に藤川に着き、少し休んでいます。藤川宿の西端には、一里塚や十王堂があり、そこは吉良道の分岐点となっていました。

図9-8.東海道五拾三次之内 藤川 棒鼻ノ図

 東海道五拾三次之内シリーズの藤川の絵には、「棒鼻ノ図」という題名がついています。「棒鼻」とは、宿駅のはずれで、標識などが書かれた杭が立っている場所を指します。この絵では、御弊をたてた2頭の馬と、御馬献進の一行が、藤川宿に入ろうとしています。御馬献進の一行が入ってくるので、棒鼻の杭の傍らで、宿駅の役人2人と傘を持った旅人が土下座しています。ニ匹の犬は土下座することなく、戯れています。
 幕府は毎年8月1日に朝廷に馬を献上することになっていました。随筆No.7で書いたように、飯島虚心筆の文献によれば、広重は天保3(1832)年にこの行列に加わり、京都に旅したというのです。
 シーボルトは、藤川でひと休みして、ビュルガーとともに、一行よりも先に歩き始めています。山地が多くなったところを通って、法蔵寺に着き、一休みして元気をとりもどしています。法蔵寺は、浄土宗西山深草派の寺院で、本尊は阿弥陀如来です。徳川家康が幼少の時、この寺で勉学をしたとされ、徳川ゆかりの宝物が多く残されています。
 その後で、赤坂と御油を通過していますが、そこで、名古屋からの尾張候参府の行列に出会っています。大名行列は軍隊の行進ですので、大名の石高に応じた一定数の家来が、槍や鉄砲などの武器を持って行進したのです。御三家の一つである61.9万石の尾張家は、4番目に大きな大名ですので、シーボルトは、その参府行列が過ぎ去るまで、長時間待たされたことでしょう。
 シーボルトは、「これらの村にはたくさんの娼家があって、目についた」(『日記』、79頁)と書いています。赤坂と御油の距離は16町(1.7km)と、宿駅間の距離が東海道で一番短かったのです。ですから、両方の宿駅では、旅籠の前をとおる客を奪い合いしていました。東海道五拾三次之内シリーズの赤坂宿の絵には、「旅舎招婦ノ図」という題名がついています。シーボルトは、女性が客引きしているのを目撃したので、旅籠を娼家とみなしたのです。なお、旅籠の飯盛女は、男の客の求めに応じて、性的なサービスを行っていましたので、シーボルトが旅籠を娼家とみなしたのは間違いとはいえないのです。

東海道五拾三次之内 御油 旅人留女

 この絵の題名の「留女」とは、旅籠へ客引きする女です。二人の留女が、夕暮れになるので、2人の旅人を赤坂宿に行かせず、強引に宿に泊まらせようとしています。十返舎一九が書いた滑稽本『東海道中膝栗毛』では、弥次郎兵衛と喜多八が、御油で留女に引っ張られています。それを連想させるために、この絵では、腕っぷしの強い2人の留女によって、2人の男の旅人が宿に引きずり込まれようとしています。その騒ぎとは対照的に、窓際の飯盛女は、両腕で顔を支えて、物思いにふけています。
 宿泊を決めた男は、下女が用意した盥の水で足を洗っています。その男の左には、「竹之内板」という文字が見られますが、それは、版元の保永堂を経営する竹内孫八が自分の地本錦絵問屋を宣伝するためのものです。宿泊予定者の札には、左から順番に「一立斎圖」、「摺師平兵衛」、「彫工治郎兵ヱ」、「東海道続絵」と描かれています。最後の札の半分の文字は「三拾五番」(御油宿は、品川宿から出発して、35番目の宿駅です)と読めます。「摺師 平兵衛」および「彫師 治郎兵ヱ」という名前は、東海道五拾三次之内シリーズで彫と摺を担当した2名の親方の名前と思われます。浮世絵の制作には、彫と摺の技術が必要ですが、彫師および摺師は、単なる職人とみなされていたために、彼らの名前が絵に挿入されることは、めったにありませんでした。
 左端の旅籠の名前は「大当屋」です。保永堂は、小さな版元で、自力で東海道五拾三次之内シリーズを制作、発売するが困難でした。そこで、当初は、仙鶴堂との相合版(共同出版)として、このシリーズを制作、発売したのです。その後、何らかの事情で、仙鶴堂が制作から手を引きました。単独制作で不安でしたが、御油宿を制作する時点では、このシリーズは大成功していたのです。ですから、大当たりを記念して、シリーズの制作関係者の名前をこの絵の中に挿入したのだと思われます。
 夜の10時に吉田(現在の豊橋)に到着しています。シーボルトは、無理な旅行で、たいへん疲れていました。しかし、深夜まで急ぎの仕事をしてから、就寝したのです。
 次回は、吉田(豊橋)を出発して、日坂に到着するまでの旅を書かせていただきます

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