1.4月7日(金)―沼津からの出発
シーボルトは、ビュルガーとともに、箱根に行く準備のために、4時頃に出立の準備にとりかかっています。夜明けとともに宿を出ましたが、間もなく朝日が昇ってきました。三島村の近くで「私は、意を決してビュルガー・・とともに乗物をおり、必要な器具を携えて急いで先行した」(シーボルト著・齋藤信訳『シーボルト参府旅行中の日記』(思文閣出版、1983年)94頁。以下、この本は、『日記』と略記します)のです。三島村では、大明神という神社を見ています。
広重が画いた東海道五十三駅道中記細見双六(以下においては、「双六」と略称します)の三島の絵では、三島大社の手前にある橋を描いていますが、そこからは、富士山がきれいに見えたのです。
三島は古くから伊豆の中心地として栄え、伊豆国の一宮である三島大社の門前町として賑っていました。三島大社の主祭神は、伊豆諸島の開拓神です。古代には伊豆諸島の噴火を畏れた人々から篤く崇敬され、中世になると、伊豆国の一宮として、源頼朝をはじめとして、多くの武士から崇敬されたのです。三島大社境内入り口の大鳥居の前は、交通の要所であり、東西に東海道、南の方向に下田街道が走り、また、甲州道が交差していたのです。
寛永11(1634)年に、三代将軍家光が参勤交代を制定し、大名が一年ごとに東海道を行き来するようになると、箱根八里の西からの入口の三島宿は、宿場町として賑わうようになりました。幕府にとって、箱根山は江戸における安全と秩序を守る拠点でしたので、幕府の直轄領であった三島宿には、宝暦9(1759)年まで代官所が置かれていました。
三島の宿の規模は大きく、一の本陣の世古本陣および二の本陣の樋口本陣と、本陣が2軒ありました。また、脇本陣は3軒、旅籠の数は74軒あったのです。箱根越えを控えた西からの旅人は、三島大社で祈願して箱根に向かいました。無事に箱根越えを終えた東からの旅人は、三島宿で山祝いしたといわれています。
図14-2では、三島大社大鳥居前の早朝の霧の風景が描かれています。画面中央の旅人たちの姿だけを墨線で描き、鳥居、人家、沼津方面に歩いていく3人の巡礼などは、シルエットで表現し、輪郭線を用いずに「ぼかし」の濃淡で画面の奥行きを出しています(図14-2は、他の版の図と比べて、輪郭線の使用がより少なく、深い霧に包まれている様子が描かれています)。寒い朝なので、馬に乗った旅人や駕籠に乗った旅人は、外套を着ています。駕籠の後ろの男は、茣蓙を体に巻いています。彼らは、箱根方面に向かっているのです。
シーボルトは、三島村で「大明神という神社をみ、それから小さな田舎の村や丈の低い森をぬけて山旅を続けた」(「日記」、94頁)のです。シーボルトは、鶯の啼き声を聞きましたが、それは、「ヨーロッパのと比べると、啼き声がやや短かく調子がはずれていた」(「日記」、94頁)と、日記に書いています。
「細い道がそこここで街道から分かれ、街道に沿って藪の中を曲りくねって」({日記}、95頁)いたので、シーボルトは、生きている植物を出島の植物園のために採集する目的で、こういう所を通ったのです。他方、ビュルガーは、深い凹道にある岩石類を調べながら歩いていたのです。
「およそ半時間ほど歩くと空地に小屋が建っていて、そこで食べ物や飲み物、特に・・甘酒というアルコール飲料を疲れた旅行者に出してくれる。・・至る所に茶屋があって、日本では旅行をするのはたいへん楽であるし、・・食べ物はとくに安い」(『日記』、95頁)と指摘し、シーボルトは、日本における茶屋の機能を高く評価したのです。
シーボルトは、山道を登りながら、富士山を眺めることができ、非常に快適でしたが、富士山が以前思っていたよりも高いことに気付いています。街道には、所々で「舗道に似たたくさんの石が敷いてあり、それをワラ靴でこするので、ひどくすべすべになっていたから、・・そこここで、人馬が転んで積荷の下になってあえいでいるのを見た」(『日記』、96頁)のです。
この絵を画いたのは、小林清親(1847年- 1915年)です。西洋画も学んだ彼は、どぎつい洋紅を用いないで、また、輪郭線を多用しないで、光を巧みに表現しました。そこで、彼の絵は、光線画と呼ばれています。
明治になっても、浮世絵の出版統制は維持されました。この絵の左には、警察への届け出の年、出版人の名前および住所、画工の名前および住所が記されています。ですから、この絵は、明治13(1880)年に出版されたものであることがわかるのです。
図14-3では、富士山が眺望できる山中新田の付近の道が、描かれています。シーボルトは、54年前に、この石畳の道を歩いていたのです。国府津-沼津間の鉄道が開通し、新橋-神戸間の東海道線が全通したのは、明治22(1889)年です。ですから、それ以前は、多くの人々が、徒歩あるいは駕籠に乗って、箱根の山を越えていたのです。
図14-3では、電信柱と電信線が描かれていますが、それは、明治の初めにおける通信網の整備を示しています。ペリー総督は、嘉永7(1854)年に、7隻の艦隊を率いて再び来航し、開港を求めました。その結果、同年の3月3日に、幕府は、神奈川宿の海岸で12条の日米和親条約を締結しました。ペリーは、アメリカ大統領から幕府への献上品として、ミニチュアの蒸気機関車とエンボッシング・モールス電信機を持参しましたので、デモンストレーションをしました。幕僚は、この二つのデモストレーションに驚愕し、開国の必要性を認識したのです。
19世紀半ばの「電信」は、モールス符号(「トン・ツー」という符号)を使用するエンボッシング・モールス電信機でした。この信号を送るためには、電信線(電信の信号を伝達する導線)を張り巡らさなければならなかったのです。そこで、明治になると、直ぐに電信網の整備にとりかかりました。日本で最初に電信線が架設されたのは明治2(1869)年で、横浜弁天の灯明台役所から横浜裁判所までの約800mでした。すぐに、同年中には、東京〜横浜間にも電信線が架設され、電信事業が開始されたのです。近代化を急ぐ日本は、初の電信線架設からわずか10年後には、全国の主要都市を結ぶ電信網を完成させ、海外から届く電報も、全国へ届けることが可能になったのです。図14-3で描かれた電信柱は、明治の初めにおける急速な近代化を示しているのです。
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11時頃に、シーボルトたちはかなり高いところまで登っています。シーボルトは「数学的な<測量用の>器具を持ち、ビュルガー・・は、この山地の高度測定のため、バロメーターを充填する必要があって」(『日記』、96頁)、一行よりも先に出立しています。箱根峠では、西方に富士山、北東には芦ノ湖を見ています。シーボルトは、そこから道が下っているのを残念がっています。「なぜなら箱根はこの山地のいちばん良い場所、つまり山地の非常に高い山の背にある」(『日記』、96頁)と、思っていたからです。シーボルトは、山を下って、12時少し前に、箱根宿に到着しています。
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箱根には、昔から、現在の元箱根に集落があり、そこは箱根神社の門前町として栄えていました。そこへの道が整備されたのは、鎌倉時代です。その道は、湯本から尾根筋を通って、元箱根に抜ける湯坂道だったのです。
源頼朝は、箱根神社を深く信仰し、鎌倉に幕府を開いてから、箱根権現社(現在の箱根神社)と伊豆走湯権現の二所詣でを始めています。そこで、鎌倉幕府歴代将軍による箱根権現への参詣は、幕府の恒例行事となりました。箱根権現は「関東守護」あるいは「関東鎮守」と呼ばれ、鎌倉幕府の祈願所として尊崇されたのです。源頼朝を尊敬していた徳川家康も崇拝したので、武門による崇敬の篤い神社として、箱根権現は栄えたのです。
徳川家康は、慶長6(1601)年に、東海道、中山道、日光街道、甲州街道、奥州街道の五つの街道と宿駅を制定しています。そして、慶長9(1604)年には、街道の幅員を五間とし、一里を36町と決めて、路傍には榎などを植えた一里塚を築かせたのです。また、街道の両側には道幅を特定するために並木を植え、それによって、旅人は木陰を歩くことができたのです。箱根の東海道の杉並木は、その名残です。
東海道が制定された時、箱根湯本からの道筋は、鎌倉時代から使われた尾根筋から、谷筋に変更されました。また、箱根宿から三島宿までは、中世の箱根越えの道の東南側に、並行して新しく道が作られたのです。幕府が、このように道を新設したのは、険しい箱根山を江戸防衛の要とするためでした。つまり、三島側の西坂は、関東に侵入する敵を発見しやすい尾根道に、他方、小田原側の東坂は外敵を迎撃しやすい谷筋に、経路が変更されたのです。
新たな道筋に、関所を設置することになりましたが、元箱根の住民は、その関所設置に不満を抱き、本陣の提供を拒みました。そこで、幕府は、関所を西に移し、隣接する小田原宿と三島宿場の住民を強制的に移住させ、急遽、箱根の宿場を設けたのです。
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シーボルトは、箱根宿に到着すると「直ちに太陽の高度を測り、箱根が<122度56分>であることを知った。またビュルガー・・は沸騰している湯で試して、沸点が約3度低い」(『日記』、96頁)ことを知ったのです。シーボルトは、種々の生きている植物を採取しています。また、1週間京都から先行したドクトル・長安から、採取物を受け取っています。
シーボルトは、食事を済ませてから、堂々と関所を通っています。「使節団のわれわれ3人を除いて、みな駕籠をおり歩いて通らねばならなかった。・・関所内に入る時に、従者は乗物の左手の戸を開け放した。・・大名だけが駕籠に乗ったままでいてもよいのだが、われわれはそれと同じ待遇を受けた」(『日記』、96頁―97頁)のです。
この絵では、大名行列の一行が、険しい谷筋の道を登り切り、箱根宿に向かっています。行列の向う側には、モザイク模様のカラフルな二子山が描かれています。箱根の山々には、多種類の木々が自生していました。ですから、その樹皮の色の違いを利用して、寄木細工が制作されたのです。広重は、箱根の寄木細工を知っていたので、二子山の木々をカラフルに画いたのでしょう。芦ノ湖の先には、富士山が見えます。この絵は、名所絵の枠組みを超えた風景画の傑作です。
シーボルトは、この絵で描かれているような石畳の道を下っています。「到ところ舗装されたようになっていて、・・たいへん歩きにくく、平らな靴をはいているわれわれには一段と骨が折れた」(『日記』、97頁)のです。シーボルトは、この苦しい道を進んで、やっと畑村に着いています。シーボルトたちは、大へん整備のよい家で、寄木細工を見ています。その寄木細工は、「家具とか日常生活品とか贅沢品などで、象嵌を施したり、編んだり、漆を塗ったりしたもの、生の樹皮や貝がらを使ったものなど・・」(『日記』、97頁)が作られていたのです。
寄木細工技法は、江戸時代後期に箱根畑宿の石川仁兵衛 が考案したものです。箱根山系で伐採された樹木の自然の色を活かし、それぞれを集めて精緻な幾何学模様を作り出す技術を考案したのです。まずは、木の色合いや風合いを組み合わせて模様を作り出した種板を制作します。そして、それをかんなで薄く削って(0.15~0.2mm)シート状にします。それを小箱などに化粧材として貼っていくのが「ヅク貼り」で、種板そのものをろくろでくり抜いて加工するのが「ムクづくり」です。これが基本ですが、箱根細工には「挽物」と「指物」が存在します。「挽物」はろくろを使用して作られる盆、椀、丸膳、玩具などです。「指物」は主に箱類で、その表面を「寄木細工」や「象嵌細工」で装飾します。さらには、木象嵌という技術があります。これは、異なる色の天然木材を使い、絵画・風景・人物などの木画を「象(かたど)り嵌(は)める」技法です。その技法で制作されたのが、図14-6です。
これは、広重筆の図14-4の輪郭線を模して、数種の天然木材の色を使って、「箱根 湖水図」に仕立て上げたものです。図14-4と見比べることをお勧めいたします。なお、この寄木細工は、私が定年退職した時、國學院大學法学部から、記念としていただいたものです。
シーボルトは、畑村から箱根湯本へと谷間を下っていきました。箱根湯本から早川沿い遡ると、良質な温泉があり、それは箱根七湯と呼ばれました。貞享3(1686)年の記録によると、湯本、塔之沢、底倉、宮之下、堂ヶ島、木賀、芦之湯の七つが挙げられていたのです。この七湯は、江戸でも知られるようになりました。箱根七湯を浮世絵で始めて紹介したのは、鳥居清長です。清長が画いた「箱根七湯名所」シリーズは、大手の版元の永寿堂から天明元(1781)年に発売されています。清長は、このシリーズで、七湯の各湯治場を背景にして、江戸の美人を画いています。
この絵は、小林清親が画いたもので、明治10(1877)年に発売されています。七湯の一つである底倉温泉の湯壺が、水車ととともに描かれています。宮ノ下温泉の先の道を、「千尋の谷」の急な道を下りた人は、早川の支流の蛇骨川に架かる万年橋を渡って、木賀温泉へと行くことが出来たのです。図24-7の絵の左下には、小林清親の署名の上に、「十月上旬午前九時写」と記されています。小林清親は、写生に基づいて、光線画を画いていたのです。もう一人の光線画の名手の井上安治は、15歳の時、清親が隅田川の雪景色をスケッチしていたのを、2時間も熱心に見ていたので、弟子入りが許されたのです。
シーボルトは、湯本村に到着する手前に「山の麓の近くで幻想的なたたずまいの小ざっぱりとした別荘があって驚いた」(『日記』、97頁-98頁)のです。それは、江戸の非常に裕福な商人が所有していたのです。この商人の父子は、二人ともオランダ人の偉大な友人でした。「ここでもドクトル長安は、植物やその他の天産物を集めることを頼まれた」(『日記』、98頁)のです。この別荘で少し足を留めてから、シーポルトは出立しています。
湯本村では、店に寄木細工などの商品をたいそうきれいに並べてあったので、見物しています。それから、松明をかざして、夜の道を小田原に向かったのです。
広重は、保永堂版の東海道五拾三次之内シリーズが、大当たりした後、多くの版元から東海道53次シリーズの下絵を描くことを依頼されました。図14-8は、嘉永2(1849)年に丸屋清次郎の寿鶴堂から出版されたシリーズの1枚です。このシリーズは、題字が隷書体で書かれているので「隷書東海道」と呼ばれ、あるいは「丸清版」とも呼ばれています。
この絵は、松明をかざした人足によって。駕籠に乗った人は箱根町へと登っていきます。箱根の関所は、夜間は通行できませんので、夜明け前の「朝まだき」に小田原宿を出発して、薄暗い街道を登っているのでしょう。
シーボルトは、「夜の道を松明をかざして」(『日記』、98頁)10時頃に小田原に着いています。彼は、山地を歩き続けたので、すっかり疲れ果てていました。ですから、宿に着いて、ぜひ必要な調査も、天産物の整理もあきらめなければならなかったのです。
次回は、小田原宿からの出立し、神奈川宿までの旅路を、書くことにいたします。
1943年川崎市に生まれる。1978年から浮世絵の収集を始める。
1980年に川崎浮世絵協会の設立に参加する。
その時に、世界的に有名な浮世絵収集家である斎藤文夫さんと知り合う。
現在は、國學院大學名誉教授(元法学部教授)、国際浮世絵学会理事
シーボルト参府旅行中の日記
シーボルト 著 / 著齋藤信 訳
刊行年月:1983年01月 思文閣出版