【連載】シーボルトの江戸への旅路 No.5 ―室から大阪までの旅―横山 実―

1.3月9日(木)―室からの出発

 朝、室の宿を発ち、「すぐうしろにある険しい山を越え、われわれは、駕籠にとって難儀な谷へくだる道を運ばれて行った」(シーボルト著・齋藤信訳『シーボルト参府旅行中の日記』(思文閣出版、1983年)42頁。以下、この本は、『日記』と略記します)のです。山の麓では、「人力でかちとった耕地が拓かれていたが、その綿密さは、どんなにほめてもほめたりない位である。細い床は、畝と畝との間を深い溝で分け、そこにコムギ・ナタネ・ハトマメ・シロエンドウ・カラシが、そして方々にタマネギやダイコンなどが、・・たっぷり1フィートの間隔で二列に蒔かれ、植えられていた。雑草1本もなく、ひとつの小石も見えなかった。・・粘土で作った壺の上にひとつひとつ小屋が作ってあって、肥料を貯えるための壺を被っていた」(『日記』、43頁)のです。
 私は、1980年代の半ばにワシントン州立大学を訪れましたが、その時、友人の犯罪学者の紹介で、農業経済学でノーベル賞を受賞した研究者と会っています。その研究者によると、人手をかけた日本の農業は、人糞を中心とした有機肥料を使い、自然環境とも調和をしており、世界で最高の農業だというのです。シーポルトは、人手をかけた農業を目撃したので、ほめてもほめたりないと、述べていたのです。
 ムマ、ニマバ、金剛山などの村を通り過ぎました。シーボルトは、「民衆の間を支配している秩序と規律とは驚嘆に値する。われわれが歩いて行ったり、乗り物で運ばれて行った所では、人々が跪き、指を地面についていた」(『日記』、43頁)のです。ここでは、人々は、大名行列が通過するのと同様に、シーボルトの一行が通り過ぎるまで、土下座していたのです。
 昼食は、正条村の旅館でとりましたが、シーボルトは、そこが清潔なのに驚いています。12時にその旅館から出発して、正条川を舟で渡っています。そして、すばらしい景色を楽しみながら、手入れが行き届いた街道を進みました。「私は、ここで再びヒバリの歌を聞いた。それは祖国を思い出させる歌で・・楽しさをいっそう高めた」(『日記』、44頁)のです。たくさんの村々を通り過ぎて、4時頃に姫路の郊外の町に到着しています。そして、播磨藩主の白く輝く城を、つまり、日本で初の世界文化遺産に登録された白鷺城を目撃しています。その後、大きな門から町に入り、ニ、三の町筋を通り抜けて、宿舎に到着しています。
 シーボルトは、到着するとすぐに、天産物などを捜し求めるため、従者や門人に、町を一巡するように頼んでいます。彼らは、数羽の生きた鳥を持ってきています。また、江戸参府の旅に随行していた植物学者の高良斎は、植木屋に出かけ、非常に珍しい木を、シーボルトのために買ってきています。シーボルトは、植物の整理を始めましたが、その時、上検使が彼を訪ねています。

2.3月10日(金)-姫路からの出発

 数インチの厚さの積雪があったので、10時過ぎにやっと宿を出発しています。天気は大変に悪かったので、駕籠かきにとって、道は難渋を極めたのです。小舟で市川を渡り、曽根に着き、そこで昼食をとっています。
 午後には、曽根天満宮を訪れました。シーボルトは、そこで「曽根の松」を見ています。延喜元(901)年に無実の罪で太宰府に左遷された道真が、その途中で伊保港に船を寄せ、曽根天満宮の西にある日笠山に登って小さな松を植え、「我に罪なくば栄えよ」と祈ったと伝わる松を見たのです。
 ステュルレル「商館長は、あとの二つの寺社にはいかなかった」(『日記』、46頁)のですが、シーボルトは、「石の宝殿と高砂に出かけて」(『日記』、46頁)います。石の宝殿には、横6.4m、高さ5.7m、奥行7.2mの巨大な石造物があり、それは、水面に浮かんでいるように見えることから「浮石」とも呼ばれています。それは、今では、宮城県鹽竃神社の塩竃、宮崎県霧島東神社の飛地境内の天逆鉾とともに、「日本三奇」の一つとみなされています。
 商館長は、地元の相撲取りが、「オランダ人のために催す慣例になっている日本式の小宴会への招待にも、顔を出さなかった」(『日記』、46頁)のです。このオランダ文化の心酔者は、三か月前に長崎にやってきて、出島でシーポルトたちを招待してくれていました。しかし、旅行中に、彼の家屋敷は、家財もろともに焼けてしまったのです。それにもかかわらず、それ相応に饗応してくれたので、シーボルトは、彼の一層の幸せを祈って飲んだり食べたりしたのです。他方では、シーボルトは、商館長の彼への冷酷な振舞いを憤っていました。
 商館長と別行動をとったシーボルトは、ニ、三時間歩いて、「高砂の松」の村に行っています。そこで、高砂神社の「相生の松」を見たと思われます。この松は、雌株・雄株の2本が寄り添って生え、1つ根から立ち上がるように見えるのです。相生の松は、人々から縁結び、和合、長寿の象徴とみなさせてきたのです。
 その後で、街道で高札を見たのですが、「そこには「ここは藩主が鷹狩でツルを捕える場所であるから、鳥獣を捕ることを禁ずる」と書いてあった」(『日記』、48頁)のです。江戸時代には、将軍や大名などの領主が鷹を放って狩猟する場所があり、それは鷹場と呼ばれていました。鷹場での狩は、生類憐れみの令を発布した五代将軍徳川綱吉によって、停止されましたが、八代将軍徳川吉宗によって復活しています。鷹場は禁猟区とされており、管理者の鳥見や代官には、密猟者や不審人物を取り締まるために、身元調査や補縄する権限が与えられていたのです。
 シーボルトは、日が暮れる頃に駕籠を探し、それに乗って、九時過ぎに加古川に着き、商館長と合流しました。その夜には、医者が会いに来ましたが、彼の息子は、鳴滝塾を訪れていたのでした。

図5-1.冨嶽三十六景 下目黒

 シーボルトと接触があったといわれる葛飾北斎(1760年-1849年)の代表作は、シーボルト事件が起こった2年後の天保2(1831)年から天保5年にかけて発売された冨嶽三十六景シリーズです。図5-1の絵では、道を歩いている二人の鷹匠が描かれています。将軍の鷹場は、江戸から五里以内に六つありましたが、目黒筋は、その一つだったのです。なお、この絵は、初摺りですので、左下に赤色の印が見られます。神奈川沖浪裏が海のV字型の構図であるのに対して、中目黒は陸のV字型の構図なのです。

3.3月11日(土)―加古川からの出発

 良い天気に恵まれて、6時に加古川を出発しています。シーボルトは、平野での農業を観察しています。「農民は、田畑から二度の収穫をするが、・・<土地の>改良によって、それを保証しようとする。(肥料のやり方について)農民は・・ワラと土を交互に積んで円錐形の小山にして腐らせるなど」(『日記』、48頁)と指摘しています。堆肥の山は、太平洋戦争後に化学肥料が普及するまで、日本各地で見られたのです。
 四谷という村で休みました。その後で、幾つもの溜池を見出しています。雨が少ない瀬戸内海地方では、「イネの灌漑用の池が幾つもあり、それらは人力をもって征服したもの」(『日記』、49頁)だったのです。その後で、土山村に着き、海の景色に見とれています。たくさんの乞食や坊主に出会っていますが、門徒坊主または一向は「弘法大師が開いた最初の宗派で、一向宗では魚肉を食べ―妻帯が許されている」と、日記の49頁で記述しています。
 2時頃に明石に到着しました。明石も城下町でしたが、播磨領と比べて、秩序や規律に欠けていると、シーボルトは指摘しています。城主の統治力に、大きな差があったのかもしれません。

図5-2.紫式部と明石の浦

 明和2(1765)年に「見当」が見いだされて、木版画での多色摺りが可能になりました。多色摺りの絵は、絵暦のために作成されたのが始まりですが、絵暦は、仲間で狂歌などを楽しむ旗本、御家人、裕福な商人たちの間の配り物でした。彼らのために美人を画いたのが、鈴木春信(1725年-1770年)でした。版元は、春信が画いた美しい絵に着目して、絵暦の大小の数字(太陰暦では、年によって、29日と30日の月が違うので、絵暦では小(29日)の月と大(30日)の月を数字で示したのです)を削ったものを売り出したのです。版元は、京都の西陣織に匹敵する美しい絵という意味で、「東錦絵」と名付けて、それを売り出したのです。江戸っ子は、初めて上方の文化に対抗できる物ができたと、大喜びして購入したのです。そこで、春信は、多色摺りが発明ざれてから死ぬまでの5年間で、美人画の第1人者の地位を獲得したのです。
 春信は、多様な画題で、丸顔の美人を画いていますが、その一端は、2023年9月に東京の下北沢の武蔵屋画廊で開催された「Charmingな春信美人画展」で示されています。春信の画題の一つは、物語や故事・説話などであり、その人物、風俗などの設定を当世風にして描いたものは、見立絵と呼ばれています。春信の周囲には、教養ある人々がたくさんいたので、彼らの期待に応えて、春信は、見立絵をたくさん画いたのです。その一つが、図5-2の「紫式部と明石の浦」です。これは、古典の説話に因んだ女性を描き、上部に和歌を挿入するシリーズのうちの1枚です。
 図5-2で、座敷に坐っている女性は、明和期の女性に見立てた紫式部です。この部屋は、紫式部が籠ったと伝わる石山寺の『源氏の間』です。紫式部は、源氏物語を起筆するにあたって、寛弘元(1004)年に、7日間、石山寺に参籠したといわれています。紫式部は、参籠した時、青年貴族が都から遠く離れた須磨で月を眺め、以前の暮らしを恋しく思うシーンを構想し、そこから、源氏物語の第十二帖『須磨』を書き始めたと言われています。
 図5-2の座敷が「源氏の間」であるとすれば、窓の外に見えるのは、琵琶湖と思われるかもしれません。しかし、窓の外に画かれている景色は、柿本人麻呂の和歌に因んで、明石の浦なのです。
 柿本人麿は、飛鳥時代に宮廷で仕えた歌人です。彼の歌は、万葉集、古今集などに400首以上載せられています。図5-2の上部に書かれている柿本人麻呂の和歌は、古今和歌集に409として掲載されたもので、次のように歌われています。
 「ほのぼのと あかしの浦の 朝ぎりに 島がくれゆく 舟をしぞ思ふ」
 この明石の浦の情景が、図5-2の窓の外に描かれているのです。

 明石を過ぎて、海岸に沿って旅を続けましたが、一人の不具者と出会っています。彼は、「車輪の付いた、円形の木の箱に乗り、物乞いしながら引かれて行った」(『日記』、50頁)のです。当時、貧困な家に生まれた身体障がい者は、物乞いすることで生計を立てていたのです。
 舞子の浜の村の近くで、海を望む素晴らしい景色を楽しんでいます。この村のすぐ下手で、シーボルトは、携帯用のコンパスを使って、若干の測量をしましたが、その後で、「マツ林のなかで、頭の回りに輝く光背のある地蔵」(『日記』、50頁)を見ています。これは、高さ4mの舞子延命地蔵です。文政8(1825)年に、漁船安全と悪病の不入を祈って、村人が建立たと伝えられていますので、シーボルトは、できたばかりの地蔵を見たことになります。
 兵庫に行く途中に、有名な蕎麦屋があり、そこで食べたり飲んだりしています。一ノ谷を通り過ぎましたが、シーボルトは、一ノ谷での源平の戦いについては、教えてもらわなかったようです。一日中歩いたので、その後、乗り物に乗り、夜の8時半頃に、兵庫の宿舎に到着しています。シーボルトが来たと聞きつけたので、「数人の医者と大勢の患者がやってきて、夜中まで私につきまとっていた」(『日記』、50頁)のです。
 ところで、シーポルトは、長崎への帰路では、兵庫から船に乗ることになっていました。そこで、乗る船に「生きている動・植物を入れるために、都合の良い保管場所の用意をした」(『日記』、153頁)のです。このようにして長崎経由でオランダに運ばれた植物の一つが、アジサイでした。シーボルトは、日本で採取したアジサイを、妻の滝(愛称・オタキさん)の名前をドイツ風に捩ってOtakusaという種小名で、登録の申請をしたという記録が残っています。六甲山系に自生していた「ヤマアジサイ」の一種である「シチダンカ(七段花)」も、オランダに渡っています。今では、オランダに渡った後に品種改良されたアジサイが、日本へと移植されています。そのような歴史をふまえて、6月には、アジサイを楽しむ「OTAKUSAまつり+」が、長崎の出島表門橋公園で開催されているのです。

4.3月12日(日)-兵庫からの出発

 朝8時に、宿を出発しました。徒歩で町筋を通りましたが、人々にはほとんど規律がみられず、「われわれの案内者は、しばしばタケの棒を振わねばならなかった」(『日記』、51頁)のです。兵庫のすぐ近くで長く続くひとつの村を通り過ぎました。有名な戦士楠木正成の墓がありましたが、それは「花崗岩のどっしりした作りで」(「日記」、52頁)、美しい森の真ん中にありました。
 楠木正成は、後醍醐天皇の勅命を受けて足利高氏と戦いましたが、延元元(1336)年に、湊川の戦いで敗れて、自刃しています。湊川の地に葬られていた彼の塚(墓)は、地元民によって大切に守られてきましたが、江戸時代に入り、正成を非常に崇敬した徳川光圀が、立派な墓を建立しています。シーボルトは、その墓を訪れたのです。なお、楠木正成を祀る湊川神社は、明治5年に創建されています。
 江戸時代には、徳川光圀によって水戸学が始まりましたが、それは皇国史観の源流の一つです。明治維新後は、皇国史観が支配的となり、「王政復古」および「祭政一致」の理想を実現するために、神道の国教化が目指されることになりました。ますは、明治元年に、神仏習合(神仏混淆)を禁止するため、神仏分離令が発出されています。そのような状況下で、楠木正成は、天皇の忠臣と崇められることになり、明治5年には、彼を祀る湊川神社が創設されたのです。
 次に、シーボルトは、生田明神の社を訪れています。日記には、神社についての見解が示されています。シーボルトによれば「神社の主な目的は、英雄や一般の福祉に貢献した偉大な人々を追憶し続けることである―そして、愛国的な原始的神事は、こうした尊敬の仕方のうちに現れ、神と崇められた祖先の功績が、その土地の者の心に深く刻みつけられ・・彼らが残した総てのものに寄せる暖かい同情心を呼びもどすのである」(『日記』、52-53頁)。シーボルトのこの見解は、湊川に葬られた楠木正成の塚(お墓)については、妥当といえるでしょう。
 生田神社を後にして、海岸と岡本山の間を通って旅を続けましたが、大阪湾を望むすばらしい景色を楽しむことができたのです。シーボルトは、「百艘をこえる船を数えたが、行き交かうものもあり、・・そこかしこに錨を下ろしているものもあった」(『日記』、54頁)のです。街道は、川床を越えて通っていましたが、両側には、堤防が築かれ、タケで編んで石をつめた長い蛇籠で補強されていました。豪雨の時には、水かさが増すので、そのような補強がなされていたのです。
 シーボルトたちは、住吉で休み、元気を恢復しています。その後、内裏のある身分の高い人の娘が、前方に幾つかの指物や長持ちを持たせて、駕籠に乗って、供を従えて通り過ぎていきました。二時間後に西宮に着き、昼食をとり、そこで一泊しました。夜には、老中の侍医をつとめている門人が、思いがけず、大阪から会いに来てくれたのです。

5. 3月13日(月)―西宮からの出発

 8時に悪天候の中、宿から出発しています。松平遠江守の尼崎の城下町を通過しています。城の堀は海に続いていて、海水は幅広い水路で堀に流れ込んでいたのです。その上に架かっている橋を渡って11時に神崎に到着し、神崎川を舟で渡っています。その後で、十三川を渡って、一休みしています。午後2時45分には、大阪の廓外の町に着いています。「雨天のため、前方にひらけた平野のなかの靄に包まれた・・町の景色を、思う存分みることができなかったのは、私には残念でならなかった」(『日記』、55頁)のです。シーボルトは、町筋を歩いて、食料品、皮革加工、指物師、銅加工、酒造家の仕事場や店に気付いています。それから25分後に、淀川に架かっている難波橋の袂に到着しています。そして、5分後に、定宿の長崎屋にたどり着いています。

6. 3月14日(火)―大阪での滞在(1日目)

 医師たちが訪ねてきましたが、彼らは、皆、オランダ医学を愛好し、敬意を払っていたのです。彼らは患者を連れてきていましたが、人数が多すぎて、すべてを診断したり治療したりすることはできませんでした。京都からは、文通している友人が、贈物の天産物を携えて、訪れています。
 シーボルトは、長崎を出発する前に書き上げ、「門人の高良斎が日本語に翻訳し、印刷できたばかりの局方の小さい本を受け取った」(『日記』、56頁)のです。また、「出島から日本婦人の貞操をはっきりと示す手紙」(『日記』、56頁)も受け取ったのです。シーボルトは、遊女だったお滝が、長崎の出島で貞操を守って、彼が帰るのを待っているのを知り、嬉しかったことでしょう。
 宿には、シーボルトに見せるために、オオカミ、ウサギおよび鳥類などが、持ち込まれています(今では絶滅しているニホンオオカミが、当時は生息していたのです)。彼はウミガメも入手しています。夜には、研究を手助けしてもらうために、従者や門人にたくさんの指示を出しています。

7. 3月15日(水)―大阪での滞在(2日目)

 ある人が、ちょうど大阪で咲いている植物、つまり、ハシトビ、ミスミソウ、イトザクラ、クチナシ、アセビ、サイシンなどを、シーボルトに見せるために、持ってきてくれました。シーボルトは、クロノメーターを使って、経度の観測を行っています。その後、大勢の患者が訪ねていますが、二、三の手術を行っています。夜には、来訪した日本の友人と夜更けまで語り合ったのです。

8. 3月16日(木)―大阪での滞在(3日目)

 シーボルトは、生きた鹿2匹を持ってきた者と会っています。そのうちの1匹は、小判150枚で売るというのですが、彼は「日本における天産物の値段はばかに高い」(『日記』、57頁)と嘆いています。
 『日記』の57頁には、「商館長の側から天物を買い集めることで、彼と不愉快な口論をする」と書かれています。シーボルトは、商館長のステュルレルと、良い関係を持てなかったようです。シーボルトは、若い時に血気盛んで、怒りを爆発させると、相手に決闘を申し込んでいました。商館長にも決闘を申し込んだというのですが、彼と険悪な関係だった理由は何だったのでしょうか。
 一つ考えられることは、商館長のステュルレルは、オランダ政府の意向を受けて、他方、シーボルトは、オランダ領東インド総督の援助の下で、日本の実情を探っており、ライバル関係にあったということでしょう。今回の参府旅行では、ステュルレルは阿蘭陀人の随行はなく、他方、シーボルトは、書記として随行するビュルガーだけでなく、オランダ語を学ぶ多数の門人たちが、情報集の手助けをしていたのです。ですから、思うように情報収集できないステュルレルは、焦りを感じていたのかもしれません。なお、江戸に滞在中は、ステュルレルは、シーボルトよりも頻繁に、天文方筆頭の高橋景保と会っています。このことは、ステュルレルも日本の地理情報を得ようとしていた証拠といえるでしょう。
 シーボルトは、「やっと夜半過ぎに出島宛てに手紙を書く暇ができ」(『日記』、57頁)たのです。お滝宛てに手紙を書いたのでしょう。
 彼は、日本の商業の中心都市である大阪では、郵便の制度が特によく整っていると指摘しています。大阪には、定期便があり、7日、17日、27日には長崎宛て、8日、18日、28日には、京都および江戸宛てに郵便物が送られていたのです。陸路では、「郵便物を入れた包みを棒につけて、飛脚が先へと運んでゆく。彼は大声をあげて次の宿駅まで急いで走り、そこで包みを引き渡す」(『日記』、58頁)のです。伝馬制度の下で、飛脚は、隣の宿場まで郵便物を運んだら、その宿場の飛脚に引き渡して、自分の宿場に戻っていたのです。
 シーボルトたちは、翌日に大阪を発ちますが、大阪での浮世絵制作は、どのようだったのでしょうか。

 明和2(1765)年に江戸で多色摺りの技法が発明されましたが、その技法は、直ぐに大阪にも伝わりました。江戸では、多色摺りの絵は、錦絵を呼ばれ、美人、役者、相撲取り、子どもなど、さまざまな画題で画かれました。しかし、大阪では、多様な画題では描かれませんでした。大阪の浮世絵は、上方浮世絵と呼ばれたのですが、その主な画題は、道頓堀の芝居小屋で演じている歌舞伎役者でした。
 ところで、江戸っ子を驚かせたのが、大阪の評判の太夫を画いた次の絵です。

図5-3.大阪新町東扇屋 つかさ太夫

 この絵の版元は、蔦屋重三郎(1750年-1797年)(略称は、「蔦重」)です。蔦重は、喜多川歌麿(1753?年-1806年)を美人画絵師として売り出しています。歌麿は、名声が上がると、他の版元のために版下絵を画くようになります。そこで、歌麿の後釜として、蔦重が売り出したのが、東洲斎写楽と栄松斎長喜であると、私は考えています。蔦重が出版した写楽の役者大首絵も、長喜の美人大首絵も、人物の背景は、豪華な雲母摺(きらずり)となっています。

 図5-3で画かれている「つかさ太夫」は、大阪新町の遊郭における最高位の遊女の一人です。公許の遊郭は、豊臣秀吉が、天下を統一した後、天正13(1585)年に大阪、天正17(1589)年に京都で、遊女を集めて設けられました。江戸時代に大阪で公的に唯一認められていたのが、新町の遊郭です。江戸では、吉原(明暦の大火後は、新吉原)が公許の唯一の遊郭です。吉原でも、裕福な大名などを相手にする、「傾城」と呼ばれた最高位の太夫がいました。しかし、大名はじめとした裕福な武士たちが減ったので、彼らを相手にする太夫は、宝暦年間(1751年-1763年)に姿を消しています。ですから、江戸っ子は、長喜が画いた「つかさ太夫」に興味を持ったのでしょう。また、彼が画いた肩の細いコケシのような美人に、魅力を感じたのでしょう。それゆえに、図5-3は、当時の江戸っ子の評判を獲得したのです。しかし、版元の近江屋は、蔦重に対抗して、五人美人愛敬競のシリーズを歌麿に画かせて、発売しました。
 蔦重が「つかさ太夫」を出版した直後の寛政5(1793)年には、風紀が乱れるということで、絵の中に美人の名を記載することが禁じられました。ですから、五人美人愛敬競のシリーズでは、判事絵を挿入して、画かれた美人の名前をわからせていたのです。また、歌麿は、長喜が描く美女の肩の細さをさらに誇張して、美女を画いたのです。そこで、長喜は、美人大首絵の絵師としての評判を失って、浮世絵界から去っていくのです。なお、五人美人愛敬競のシリーズのうちの「松葉屋 喜瀬川」と「富本 いつとみ」は、2024年の冬に菱川師宣記念館で開催された特別展「浮世絵美人 時代を彩る女性たちを描いた絵師」で展示されています。

9. 3月17日(金)―大阪からの出立

 シーボルトは、「八時ごろ牢獄にいるような四日間の大阪滞在を終え」(『日記』、58頁)、京都に向けて出発しています。
 なお、帰路は、「大阪の有名な芝居を見に行った」(『日記』、145頁)りして、大阪での滞在を楽しんでいます。ですから、大阪の警備が特に厳しかったというわけではありません。
 次回は、京都への旅路と京都での滞在について、書く予定です。

筆者(横山 実)のプロフィール

1943年川崎市に生まれる。1978年から浮世絵の収集を始める。
1980年に川崎浮世絵協会の設立に参加する。
その時に、世界的に有名な浮世絵収集家である斎藤文夫さんと知り合う。
現在は、國學院大學名誉教授(元法学部教授)、国際浮世絵学会理事

引用

シーボルト参府旅行中の日記
シーボルト 著 / 著齋藤信 訳
刊行年月:1983年01月  思文閣出版

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