1.4月8日(土)―小田原からの出発
シーボルトは、朝、小田原を出発しています。小田原は、「かなり大きな町で、入り口と出口に門と番所があり、店は少ないー娼家が多く、中から朝のふしだらな衣裳をまとった女たちがわれわれに秋波を送っていた」(シーボルト著・齋藤信訳『シーボルト参府旅行中の日記』(思文閣出版、1983年)98頁。以下、この本は、『日記』と略記します)のです。
広重が画いた東海道五十三駅道中記細見双六(以下においては、「双六」と略記します)の小田原の絵では、西から酒匂川に向かう海岸沿いの道が描かれています。シーポルトは、この道を歩き、「海岸に沿って北北東に進むと、所々で荒波が見えた」(『日記』、98頁)のです。
酒匂川は、富士山の東側から小田原を経て相模湾に注いでいます。幕府の政策によって、酒匂川では、架橋や渡舟が禁止されていたので、旅人は、川越人足による徒渡しによって、川を渡っていたのです。
この絵は、酒匂川の東側の上空からの鳥観図です。図15-2は、後摺りです。初摺りと後摺りとの大きな違いは、遠方に見える箱根連山の描き方が違っていることです。後摺りでは、山並みがなだらかになり、遠方の紺色の外輪山の手前には、二子山と思われる山が描かれています。また、描かれている人の数は、後摺りの方が多くなっています(なぜ人数を多くしたかは不明です)。東側から川越した三人は、朝霧が立ち込める道に入り、小田原に向かっています。その先の小田原宿の右手には、三層四階の小田原城が描かれています。
酒匂川を渡った後の街道は、「マツ並木が蔭をおとして大磯まで通じて」(『日記』、99頁)いたのです。シーボルトは、大磯に着いて、そこで昼食をとっています。
大磯宿の付近の街道では、宿駅伝馬制が敷かれた時、一里塚とともに松並木が整備されました。小田原宿から大磯宿までは4里(約16㎞)、大磯宿から平塚宿までの距離は27丁(約3㎞)でした。隣の宿場への距離が、このように不均等であったにもかかわらず、天保14(1843)年の記録によると、大磯宿には、約1.3kmの道筋に本陣が3軒、旅籠屋が66軒もありました。旅籠屋数は、平塚宿や藤沢宿よりも多かったのです。相模灘の海岸では漁業が盛んでしたので、大磯には、米や魚介類などを積み出す大きな湊がありました。海岸に打ち寄せられる砂利は、江戸幕府や大磯宿に泊まる大名への献上品として珍重されていました。
「双六」の絵は、東の上空から大磯宿を見た鳥観図です。街道筋の旅籠屋の先には真鶴岬が、さらに先には伊豆半島の山々が描かれています。松林の海岸の沖合の相模灘には、たくさんの大型帆船が行き交っていたのです。
この絵では、「曽我物語」を踏まえて、「虎ケ雨」というタイトルがついています。そこで、「曽我物語」について、簡単に説明しておきます。
曽我十郎・五郎兄弟の父の河津三郎祐泰は、領地争いによって工藤祐経に殺害されました。「曽我物語」は、兄弟が18年の艱難辛苦の末に仇を討つという物語です。兄弟が曽我を名乗るのは、父の死後に、母が曽我祐信と再婚したからです。曽我兄弟は、建久3(1193)年5月28日に、源頼朝が富士山の裾野で催した巻狩の夜に、巻狩の責任者である工藤祐経を討ち取ります。しかし、十郎はその場で殺され、五郎は捕らえられて打ち首になっています。
この史実に基づく「曽我物語」は、能、人形浄瑠璃、歌舞伎の題材になりました。江戸で演じられた歌舞伎では、享保(1720年代)頃から、毎春(正月)に「曽我物」の上演が定着し、それは「曽我狂言」と呼ばれました。十郎が和事、五郎が荒事、そして本来は悪人の工藤祐経が立役(善人)となって演じられたのです。
十郎は、20歳の時に、大磯の遊女であった17歳位の虎御前と会い、恋仲となりました。「曽我物語」の舞台では、十郎は、富士山の裾野へと仇討ちに出かける前夜に、大磯で虎午前と会い、「生きて再び出会うことが叶わぬ」と悟った二人が登壇します。虎午前は、十郎が仇討の際に亡くなったことを知り、曽我兄弟の母が住む里を訪ねて、百か日の供養を営んだ後、箱根権現社において出家します。諸国の霊場をめぐりながら、兄弟の菩提を弔った後に大磯に戻り、高麗山の麓に庵を結んで、兄弟の供養を続け、63歳の生涯を閉じたのです。
広重は、図15-4で雨を画いていますが、それが「虎ケ雨」です。曽我十郎が亡くなったのは、旧暦の5月28日でしたので、後世、この日に降る雨のことを、「虎ケ雨」と呼んだのです。そして、人々は、その雨を、十郎を追慕して悲しむ虎御前の涙とみなしたのです。
図15-4の右には、出家した虎午前の庵があった高麗山の麓が描かれています。その手前は、化粧坂の松の並木道です。松並木の終わりには、大磯宿の東の入り口を示す棒鼻が立っています。稲を刈り取った耕地の先に見える海岸は、小余綾(こゆるぎ)の磯です。西行法師は、ここで「心なき 身にもあはれは 知られけり 鴫(しぎ)立つ沢の 秋の夕暮れ」(新古今和歌集 362)と詠んだのです。
この絵は、歌川国芳が「曽我物語」を踏まえて画いた団扇絵です。江戸時代には、夏には涼風を得るために、団扇が広く用いられていました。その団扇のために、絵師が画いたのが団扇絵です。団扇は消耗品ですので、図15-5のようにきれいな色が残っているのは、稀なのです。この絵は、「今様」というタイトルがついていますが、十郎と虎午前を江戸時代に見立てているからです。
「額面合」ですので、いくつもの「対」が描かれています。左の額の内に描かれた武士は、「十郎」です。歌舞伎の看板絵ですので、額縁入りなのです。その額の中の武士を見つめている女を、「虎午前」と見立てています。十郎は「松明」を持ち、虎午前は、火がついた「紙縒り」を持っています。十郎は、「幕」の中に入って、工藤祐経を討ち入ろうとしています。「蚊帳」から抜け出た虎午前は、討ち入ろうとしている十郎を見つめています。全体の「団扇」の対として、虎午前は左手に「団扇」を持っています。その団扇に描かれているのは、瓜ですが、それは「虎午前まくわ」と呼ばれたマクワ瓜です。図15-5は、国芳の画想の豊かさを十分に示しています。
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シーボルトは、大磯で昼食をとってから、平塚宿に向かっています。「村々は魚の多い海から良い食べ物がとれるので、・・大部分の人々は、かなりよい暮しをしているように見えた」(『日記』、99頁)のです。彼の日記には、平塚宿という地名の記述がありません。その代わり、「山田Jamata?村」という地名が書かれています。*1 つまり、シーボルトは、「山田Jamata?村では、ちょうどここの八幡社・・の祭が行われていた」(『日記』、99頁)と書き記していただけでした。
日記で書かれている八幡社は、平塚宿にある八幡宮と思われます。平塚八幡宮の創祀は、仁徳天皇の時といわれています。それ以来、相模國一國一社の八幡宮として、歴代の天皇や、源頼朝をはじめとする武士から崇敬されていました。しかし、戦国時代になると兵火に遭い、社殿をはじめ、社宝や社伝記などは、ことごとく焼失したのです。信仰心のある徳川家康は、江戸に入府すると、荒廃していた平塚八幡宮の社殿を復興させたのです。
江戸時代になると、平塚八幡宮は、東西に東海道が通り、集積港であった須賀への道、そして厚木や大山への道が交わったので、交通の要衝となりました。平塚宿は、八幡宮の門前町として栄えたのです。
*1 田賀井篤平編『Twei Tagebücher der Reise nach Jedo im Jahr 1826 von Heinrich Bürger und Philipp Frenz von Siebold』(2020年に、Verôffentlichungen des Ostasien-Instituts der Ruhr-Universitât Bochumで刊行される)によれば、ビュルガーの日記には「Im Dorfe Jamata」(116頁)、シーボルトの日記には「Im Dorffe Jamata?」(117頁)と記述されています。二人とも、Jamataと記述していますので、通詞が地名を間違えて、彼らにJamataと伝えたのでしょう。
この絵では、相模川の東側からの渡舟の景色が描かれています。鶴と思われる鳥が舞う先には、富士山が見えます(北斎筆の富嶽三十六景「相州梅沢左」では、五羽の鶴が描かれているので、江戸時代の相模国では、鶴が生息していたのでしょう)。この絵で書かれているように、この付近の相模川は「馬入川」と呼ばれていました。それは、次のような物語に由来していたのです。
建久9(1198)年12月に、源頼朝の家臣で武蔵の国を治める稲毛重成が、亡き妻(北条政子の妹)の供養のために、相模川に橋を架けました。源頼朝は、その橋の供養式に参列しましたが、その時、彼が乗る馬が突然暴れだし、川に入り込んだのです。その言い伝えで、住民は、この辺りの相模川を「馬入り川」と呼び、やがて「馬入川」と呼ぶようになったのです。
シーボルトは、藤沢宿へと向かいましたが、「この辺りの街道は非常に活気があったし、乞食もほかよりは多く見かけた。六歳から十二歳ぐらいの少女が余興として非常に行儀の悪いトンボ返りをしていた」(『日記』、89頁)のです。物乞をしていた親が、娘にとんぼ返りをさせていたのでしょう。江戸に近づいてきたので、街道は賑やかとなり、「ある大名の家来が近くを馬でとばして行ったし、向うの方には書状を棒にはさんで飛脚が走っていた」(『日記』、99頁―100頁)のです。
シーボルトは、途中でちょっと休んだだけでしたので、早い時刻に藤沢に着いています。大名が本陣に宿泊していたので、シーボルトの一行は、娼家、つまり飯盛女が働く旅籠に泊まらざるを得なかったのです。
藤沢には、正中2(1325)年に創建された時宗の総本山である清浄光寺があります。その寺は、宗祖の一遍上人が修業のため全国を遊行したことから、遊行寺とも呼ばれています。藤沢は、その門前町として発展したのですが、交通の要所でした。ですから、北条氏の時代は、小田原城と、その支城の江戸城の桜田門、八王子城および玉縄城を結ぶ重要な分岐点でした。ですから、北条氏は、弘治元(1555)年には、藤沢大鋸町に伝馬を置いたのです。
その後も要地とみなされたので、慶長元(1596)年には、徳川家の宿泊施設である藤沢御殿が築かれています。そして、慶長6(1601)年に宿駅伝馬制が定められた時、東海道の藤沢宿となったのです。その後に、戸塚宿と川崎宿が追加されたので、江戸から数えて6番目の宿場になったのです。
広重は、東海道五拾三次之内シリーズでも、「双六」でも、藤沢宿では、大鳥居を描いています。清浄光寺(遊行寺)の入り口の西に位置する大鳥居は、ここから約5キロ先にある江ノ島弁財天の入り口を示す一ノ鳥居です。図15-2は、東側からの景色です。大鋸橋(だいぎりばし)を渡った人々の一部は、東海道から分かれて、左手の道を歩き、藤沢を通り抜けて江の島に向かったのです。
江戸っ子にとって江の島は、人気のある参拝地でした。ですから、沢山の絵師が、趣向を凝らして江の島を描いています。ここでは、北斎と二代豊国が画いた江の島の絵を紹介しておきます。
この絵は、葛飾北斎が画いた富嶽三十六景シリーズの一枚です。このシリーズは、広重の東海道五拾三次之内シリーズと同時期の天保2(1831)年-天保5(1834)年に刊行されています。柳亭種彦『正本製(しょうほんじたて)』(天保2年、永寿堂)の巻末広告で示されているように、このシリーズは藍摺で刊行されています。植物染料「藍」とともに、ペロ藍が用いられたのです。
ベロ藍は、18世紀初頭にベルリンで発見されました。日本にこの絵具が初めて輸入されたのは延享4(1747)年頃です。日本では、「ベルリン藍」を省略した「ベロ藍」と呼ばれたのです。このベロ藍は、文政9(1826)年に中国との取引量が激増したので、それ以降、江戸でも安価に入手できるようになりました。そこで、版元は、渓斎英泉にベロ藍を用いて美人画を画かせたのです。北斎と広重は風景画でベロ藍を用いました。ベロ藍で藍色のグラデーションを表現できたので、彼らの風景画は、引き立ったのです。
図15-9では、人々は、干潮で現れた砂州の上を行き交っています。江の島の入り口には、大鳥居の代わりに、二本の燈籠が描かれています。燈籠は実在していなかったので、北斎は、名所図会などを参考にして、この絵を画いたのかもしれません。
この絵を画いた二代豊国は、初代豊国の弟子です。初代豊国の養子となりましたので、初代が亡くなった翌年の文政8(1825)年に襲名して、二代豊国と名乗っています。しかし、天保15(1844)年正月に、国貞が二代豊国の名前を名乗ったので、それ以降、彼は仕事を失い、浮世絵界から消えています。
天保4(1833)年 – 天保5(1834)年の間に、二代豊国は、瀟湘八景の八つの画題を用いて、名勝八景を画いています。その代表作が、「夜雨」の画題を用いた「大山夜雨 従前不動頂上之図」です。図15-10は、「晴嵐」の画題を用いて江の島を描いたもので、「大山夜雨」に匹敵する秀作です。*2
図15-10では、手前の海岸、つまり、「小由留木の磯*3」もろこしが原に連なる海岸にいる旅人たちの姿が描かれています。海岸の左手には、裸の子ども二人が描かれています。彼らは、海水浴をした後に、旅姿の両親のもとに駆け寄っています。波の先には、干潮で現れた砂州の上を歩いている人々が描かれています。砂州の先には、文政4(1821)年に再建された大鳥居が見えます。江の島の家並みの向こうには、検校の杉山和一によって建立された三重塔が見られます(この三重塔は、明治時代の初めの廃仏毀釈で取り壊されています)。江の島の右側には、伊豆半島の山並みの上に、富士山が聳えています。この絵は、北斎筆「富嶽三十六景 相州江の嶌」よりも、構図が大胆であるといえます。
次回は、藤沢宿から出発して、川崎宿に到着するまでの旅路を、書くことにいたします。
*2 熱海の駅には、二代豊国筆「名勝八景 熱海夕照」が飾られています。
*3 「小由留木の磯」は、「小余綾(こゆるぎ)の磯」です。江戸時代は、音読が同じの違う漢字を用いることがあったのです。
1943年川崎市に生まれる。1978年から浮世絵の収集を始める。
1980年に川崎浮世絵協会の設立に参加する。
その時に、世界的に有名な浮世絵収集家である斎藤文夫さんと知り合う。
現在は、國學院大學名誉教授(元法学部教授)、国際浮世絵学会理事
シーボルト参府旅行中の日記
シーボルト 著 / 著齋藤信 訳
刊行年月:1983年01月 思文閣出版