1.4月9日(日)―藤沢からの出発
シーボルトの一行は、「朝激しい俄か雨をついて」(シーボルト著・齋藤信訳『シーボルト参府旅行中の日記』(思文閣出版、1983年)100頁。以下、この本は、『日記』と略記します)藤沢を出立しています。その後で、戸塚などの村々を通っています。シーボルトは、戸塚宿と保土ヶ谷宿について、日記に書いていません。彼が通り過ぎた二つの宿場を、浮世絵に基づいて説明しておきます。
徳川家康は、豊臣秀吉の命令による関東移封で、天正18(1590)年に駿河(現在の静岡)から江戸へ移動しました。そして、関東八州の領国内の街道の整備を始めました。北条氏が小田原と江戸の間の街道として使っていた道の代わりに、軍事的観点から、万単位の大軍が速やかに移動することが可能な街道を、新設することにしたのです。山を削って谷を埋め、川の流れを変えることで、戸塚を経由する新しい東海道が造成されたのです。しかし、戸塚は、慶長6(1601)年に宿駅伝馬制が設けられ時には、藤沢宿が反対したために、宿場に認定されませんでした。藤沢宿の反対を押し切って、幕府が戸塚を宿場に認定したのは、3年後の慶長9(1604)年だったのです。
戸塚宿は、日本橋からは10里半(約42km)の距離にあったので、江戸を早朝に出立した旅人が、宿泊するには最適でした。戸塚は、また、鎌倉への道、大山参詣の道の分岐点でもありました。このように地の利がよかったので、戸塚宿は繁昌し、旅籠の数は、小田原宿に匹敵するほどでした。天保14(1843)年には、人口が2‚906人、家数が613軒もあったのです。
図16-1は、初摺りです。夕方に戸塚に着いた旅人は、馬から飛び降りています。それに対して、後摺りでは、旅人は、馬に乗ろうとしています。飛び降りる姿を、馬に乗る姿に変えた理由は不明です。初摺りは、細部まで丁寧に描かれ、また、屋根などがきちんとグラデーションで表現されています。それに対して、後摺りでは、手抜きが見られます。たとえば、茶屋には、板塀が設けられ、その後ろの景色は描かれていません。図12-5と図12-6で説明したように、手間をかけずに、短時間で浮世絵木版画を大量に制作するために、手抜きをするのです。
茶屋は「こめや」の看板を掲げていますが、ここの名物は、米で作った餅菓子でした。二階は旅籠でしたので、「こめや」の軒下には、宿泊を予定している講グループの名札が見られます。一番右の「大山講中」は、丹沢山系の南に位置する大山にある阿夫利神社に参拝する講グループです。大山阿夫利神社は、崇神天皇の頃に創建されたと伝えられています。「あめふり山」とも呼ばれており、農家の人々は、雨乞いや五穀豊穣の祈願のために、この神社に詣でていたのです。
馬から降りた旅人を、茶屋の女が出迎えています。その先の長椅子には、煙草盆が置かれています。茶屋で休憩する人は、煙管で煙草を吸うので、このような盆が置かれていたのです。馬を支えている馬子の手前には、東へと旅する女が描かれています。柏尾川に架かる吉田橋の上では、杖を肩に担いだ男が、同じく東へと歩いています。橋のたもとの石柱には、「左り かまくら道」と彫られています。鎌倉をめざす人々は、ここから東海道と分かれ、柏尾川沿いを南下して、大船を経て鎌倉へと向かったのです。
戸塚宿を過ぎると、旅人は坂を登ります。広重が画いた東海道五十三駅道中記細見双六(以下においては、「双六」と略記します)の戸塚では、その坂から戸塚宿を眺める風景が描かれています。相模国と武蔵国の境を過ぎてからは、急な権太坂を下り、保土ヶ谷宿に向かうのです。「権太坂」という名前の由来は、旅人が坂の名を聞いたところ、道端の耳の遠い老人が、自分の名を聞かれたと思って「権太」と答えたためであると言われています。
保土ケ谷宿は、慶長6(1601年)年に、東海道に宿駅伝馬制度が定められた際に、「伝馬朱印状」が、幕府から発給されて、幕府公認の宿場となっています。宿場として賑わいましたが、宝永4(1707)年に富士山が噴火したときは、田畑に火山灰が降り、凶作となっています(それ以後、富士山の噴火は、5回ありました)。
図16-3では、東からやってきた旅人や駕籠かきが、帷子川(かたびらがわ)に架けられた新町橋を渡り、保土ヶ谷宿に入ろうとしています。その先には、深編笠をかぶった虚無僧が歩いています。虚無僧は、尺八を吹いて、托鉢をしながら旅していたのです。橋の向こう側には、母と子、そして、傘をかぶった旅の一行が描かれています。母と子の後ろの家は、蕎麦屋で「二八そば」という看板がかけられています。幕末は、蕎麦の値段は十六文だったので、「二八そば」と呼ばれていたのです。宿の裏の農道では、農夫と子どもが歩いています。保土ヶ谷宿は、本陣を中心に旅籠、茶屋、商店が立ち並んで、賑わっていたのです。
この絵は、葛飾北斎が画いた富嶽三十六景シリーズの1枚です。「江戸名所図会」では、保土ヶ谷宿の近くの品野坂は、松の老樹が生い茂っており、ここから富士が望める景勝の地であると記しています。当時、保土ヶ谷の東海道の松並木は、有名だったので、北斎はそれを画題にしたと思われます。本図は、フランス印象派の画家モネの名作「ポプラ並木」に影響を与えたことで知られています。
図16-4は、明るい緑色が配されていますので、初摺りです。後摺りでは、緑色の部分が、藍色になっています。しかし、残念なことに、題名「冨嶽三十六景 東海道程ヶ谷」の部分が切り取られ、代わりに「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」と書かれた紙が貼りつけられています。このように工作したのは、有名な「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」と題名を変えれば、高値で売れると考えたためかもしれません。
図16-4で描かれている場所が、どこなのかは不明です。富士山の右裾に雪が多く残っているので、道は北から南へと通じ、保土ヶ谷宿に向かっているのでしょう。虚無僧は、北へと歩いています。その手前には、馬子が牽く馬に、旅人が乗っています。馬の背には、版元の永寿堂の家紋が見られます。馬子は、富士山を眺めているようです、富嶽三十六景は、労働している人々を描いており、富士山を眺めている姿は、稀にしか描かれていません。馬子の先には、女を乗せた駕籠が止まっています。先頭の駕籠かきが、草履の紐を締め直すために、止まったようです。
保土ヶ谷からの旅人は、入り江を右手に見ながら、岡の尾根道を歩きました。そこの高台は、入り江を眺める風光明媚な場所でした。ですから、「双六 神奈川」で描かれているように、旅籠や茶屋は、崖からはみ出して、懸造り(かけづくり)で縁台を設けていたのです。
図18-6は、高台の風景を描いています。旅籠や茶屋の前には、飯盛女が旅人を店に引きずり込もうとしています。江戸を早朝に出立した旅人の多くは、神奈川宿を素通りして、保土ヶ谷や戸塚を目指しましたので、強引な客引きがあつたのです。坂の上方にたたずんでいる飯盛女の上には、「さくらや」の看板がみられます。この場所には、今でも、「さくら屋」を買い取った料亭「田中屋」が存在しています。「田中屋」では、勝海舟の紹介を受けて、明治7(1874)年から1年間、坂本竜馬の妻の「おりよう」が、中居として働いていました。
この写真で明らかなように、崖下に見えた入り江は、鉄道敷設を契機として、全面的に埋立てられました。ですから、今では、「田中屋」の後方には、横浜駅周辺に林立したビルが見えるのです。
入り江の向こう側に見える崖は、本牧です。その手前の浜が、横浜です。幕府は、嘉永7(1854)年3月31日に日米和親条約を調印し、神奈川の開港を約束しますが、その場所を神奈川湊ではなく、入り江の向こう側の横浜にしたのです。ですから。明治維新の直後の明治5(1872)年に、新橋と横浜を結ぶ鉄道が建設されたのです。
幕末には、江戸湾の防衛のために神奈川湊に砲台が建設されました。また、明治になってからは鉄道の敷設のために、山が削り取られました。その結果、鉄道が通る切通ができ、その上をまたぐために、明治3(1870)年には、現在の宮前商店街の北側に、旧東海道を結ぶ青木橋が建設されたのです。
シーボルトは、神奈川で昼食をとっています。「それから海のすぐそばを通り過ぎ・・ヘミナHemina村で一頭のよく馴れた熊を見」(『日記』、100頁)ています。その熊は、芸を仕込まれていて、いろいろなことをしていたのです。6時に川崎宿に到着しています。ここでは、江戸の宿舎の主人が、挨拶に来ていました。また、数人の医師が、シーボルトに会うために訪れていました。
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安政5(1858)年には、日本とアメリカ合衆国との間で、日米修好通商条約が締結されています。それに合わせて、日本とオランダとの間で、日蘭修好通商条約が結ばれました。この条約によって、シーボルト事件(伊能忠敬が作成した大日本沿海輿地全図などを、国外に持ち出そうとした事件)でシーボルトに科せられた追放処分は、解除されました。そこで、シーボルトは、翌年にはオランダ貿易会社顧問として再来日しています。そして、1862年5月には、収集した多数の品を持って、長崎から帰国しています。この間に、一時、江戸と横浜に滞在しています。シーボルトが訪れた当時の横浜の様子を、以下において、「横浜絵」と呼ばれる浮世絵で紹介いたします。
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横浜に一部の居留地の建設が完成したのは、万延元(1860)年の初めです。歌川貞秀は、直ちにそこに行って、「横浜異人商館之図」を画きましたが、それは翌年の文久元(1861)年に発売されています。
できたばかりの異人商館は、2階建ての木造建築でした。図16-7で示されているように、右側が売り場です。来訪した日本人は、中国人の通訳を通して、身振り手振りで西洋人と取引の交渉をしています。この交渉によって、日本の人々は、生糸やお茶が外国人に売れることがわかり、それらの取引を拡大していったのです。
図16-8の左側には、台所の様子が描かれています。西洋人が、丸鶏を殺して捌いています。黒人の女が、洗濯しています。竹棒につるされた洗濯物は、室内で乾されています。中央に見られる菅は、1階から2階へと連絡するための音通菅かもしれません。この絵は、外国人との取引開始の様子を描いていますので、日本銀行の向かいの貨幣博物館で展示されています。
横浜異人商館の2階の部屋には、畳の上に絨毯が敷かれています。奥の部屋では、西洋から持ってきた椅子に座った人々が、食事を楽しんでいます。廊下の右では、西洋の女がバイオリンを、芸者が三味線を弾いています。異人館に出入りする女の中には、妾として西洋人の男の性欲を満たした者もいました。
横浜に滞在した西洋人や中国人の男は、安政8(1859)年11月10日に開業した港崎遊廓(みよざきゆうかく)で性欲を満たしていました。港崎遊廓は、吉原遊郭と同様に掘で囲まれており、大門以外では出入りできませんでした。外人客への接待の仕方は、長崎の丸山遊郭から学んだのです。この遊郭の中心である岩亀楼が、外国人への接待を独占していました。
この絵は、歌川芳員(生没年不明)が画いたもので、文久元(1861)年に刊行されています。幕府は、鑑札制をとり、一般の遊女と区別するため、外国人専用の遊女(羅紗緬)に鑑札を与えました。そして、横浜においては、その運用を岩亀楼に託しました。岩亀楼内の区画は、日本人用と外国人用に分かれていました。外国人客は、外国人専用区画で羅紗緬しか選べなかったのです。
図16-10は、岩亀楼の外人専用区画の様子を描いています。中央の部屋では、西洋人の男たちが、酌婦が注ぐ酒を飲んで、どんちゃん騒ぎしています。芸者の演奏に合わせて、一人の男は踊っています。廊下の右端には、裕福な中国人客が歩いています。
この絵は、歌川貞秀が画いた大判6枚の続き絵のうち、右の2枚です。発刊したのは、居留地が出来た直後の文久元(1861)年です。波止場は、西と東の二つで、図16-11の右上の西波止場には、帆船が六隻停泊し、荷下ろしが行われています。西波止場からの出入口には、船番所があり、波止場に出入りする人々を監視しています。そこから海岸に沿って、柵がめぐらされています。柵内が居留地で、その中には、すでに多くの建物が存在しています。各建物にも柵がめぐらされていますが、尊王攘夷の浪人から襲われないために設けられたのかもしれません。たくさんの人が集まっているので、彼らに娯楽を提供するために、芝居小屋が存在しました(図16-11の右上)。
三隻の船が停泊している東波止場の出入り口の近くには、見張り番所があります。波止場の前の広場の動きを、二つの番所で監視していたのです。見張り番所の左手には、水神社があります。見張り番所の裏には、白壁の建物が見られます。これは、横浜における初めての西洋風建築かもしれませんが、図16-11では、建物の名前は記されていません。
次回は、川崎から江戸への旅路ですが、これで連載は終わりになります。
1943年川崎市に生まれる。1978年から浮世絵の収集を始める。
1980年に川崎浮世絵協会の設立に参加する。
その時に、世界的に有名な浮世絵収集家である斎藤文夫さんと知り合う。
現在は、國學院大學名誉教授(元法学部教授)、国際浮世絵学会理事
シーボルト参府旅行中の日記
シーボルト 著 / 著齋藤信 訳
刊行年月:1983年01月 思文閣出版