浮世絵– tag –
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最新記事
【連載:最終回】シーボルトの江戸への旅路 No.17―川崎から江戸までの旅(終わり)―横山 実
1.4月10日(月)―川崎からの出発 シーボルトが宿泊した川崎宿は、慶長6(1608)年に宿駅伝馬制が制定された時は、正式な宿場ではありませんでした。品川宿と神奈川宿との間が、往復十里と長かったために、元和9(1623)年になって、宿場に認定されたのです。川崎宿は、砂子・久根崎・新宿・小土呂の4町から構成されていて、本陣は、田中本陣・佐藤(惣左衛門)本陣・惣兵衛本陣の三つがありました(私が子ども時代に住んでいた家は、東海道が通っていた砂子の小土呂橋の近くでした)。シーボルト一行は、そのい... -
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【連載】シーボルトの江戸への旅路 No.16―藤沢から川崎までの旅―横山 実
1.4月9日(日)―藤沢からの出発 シーボルトの一行は、「朝激しい俄か雨をついて」(シーボルト著・齋藤信訳『シーボルト参府旅行中の日記』(思文閣出版、1983年)100頁。以下、この本は、『日記』と略記します)藤沢を出立しています。その後で、戸塚などの村々を通っています。シーボルトは、戸塚宿と保土ヶ谷宿について、日記に書いていません。彼が通り過ぎた二つの宿場を、浮世絵に基づいて説明しておきます。 図16-1.東海道五拾三次之内 戸塚 元町別道 徳川家康は、豊臣秀吉の命令による関東移封で... -
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【連載】シーボルトの江戸への旅路 No.15 ―小田原から藤沢までの旅― 横山 実
1.4月8日(土)―小田原からの出発 シーボルトは、朝、小田原を出発しています。小田原は、「かなり大きな町で、入り口と出口に門と番所があり、店は少ないー娼家が多く、中から朝のふしだらな衣裳をまとった女たちがわれわれに秋波を送っていた」(シーボルト著・齋藤信訳『シーボルト参府旅行中の日記』(思文閣出版、1983年)98頁。以下、この本は、『日記』と略記します)のです。 図15-1.東海道五十三駅道中記細見双六で描かれた小田原 広重が画いた東海道五十三駅道中記細見双六(以下においては、「... -
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【連載】シーボルトの江戸への旅路 No.14 ―沼津から小田原までの旅― 横山 実
1.4月7日(金)―沼津からの出発 シーボルトは、ビュルガーとともに、箱根に行く準備のために、4時頃に出立の準備にとりかかっています。夜明けとともに宿を出ましたが、間もなく朝日が昇ってきました。三島村の近くで「私は、意を決してビュルガー・・とともに乗物をおり、必要な器具を携えて急いで先行した」(シーボルト著・齋藤信訳『シーボルト参府旅行中の日記』(思文閣出版、1983年)94頁。以下、この本は、『日記』と略記します)のです。三島村では、大明神という神社を見ています。 図14-1.東海道... -
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【連載】シーボルトの江戸への旅路 No.13―蒲原から沼津までの旅―横山 実
1.4月5日(水)―蒲原での滞在 図13-1.東海道五十三對 蒲原乃駅 保永堂版の広重の「東海道五拾三次之内」シリーズが、大ヒットしたので、版元は競って趣向を凝らした東海道五十三次物を出版するようになりました。歌川国貞(後の三代豊国)が画いた「東海道五十三次之内(通称・美人東海道)」では、東海道の宿の風景と美人がとりあわせて画かれました。また、役者絵を見立てた「見立役者 東海道五十三對之内」も出版されています。そのような流れの中で、天保15(1844)年から弘化4(1847)年にかけで出版... -
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【連載】シーボルトの江戸への旅路 No.12―府中(現在の静岡)から蒲原までの旅―横山 実
1.4月4日(火)―府中(静岡)からの出発 シーボルトは、激しい雨の中、府中を出立しましたが、まもなく数軒の小さな店に気付いています。「家々には十二羽あるいはもっと多くのウズラを入れた小さい鳥籠が掛っているのが、よく目についた。この鳥は、ここから余所の地方に広く売られていて、啼き声の良し悪しによって小判一枚ないし二枚の値段がする」((シーボルト著・齋藤信訳『シーボルト参府旅行中の日記』(思文閣出版、1983年)87―88頁。以下、この本は、『日記』と略記します)のです。シーボルトは、... -
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【連載】シーボルトの江戸への旅路 No.11―日坂から府中(現在の静岡)までの旅―横山 実
1.4月2日(日)―日坂からの出発 日坂宿は、比較的小さい宿場で、天保14(1843)年の記録によると、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋33軒等、家数168軒で、住民数は750人でした。大田南畝(1749年-1823年)の「改元紀行」によると、ここではわらび餅が売られていました。また、峠越えをしてきた旅人の足の痛みを治癒する足豆散・足癒散等も売っていました。 シーボルトは、宿を出て山地を通り、東海道の三大難所(峠)の一つとされる小夜の中山へと向かいました。彼は、小夜の中山には「鳴らすと願をかけた人に銭... -
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【連載】シーボルトの江戸への旅路 No.10―吉田(現在の豊橋)から日坂までの旅―横山 実
1、3月31日(日)―吉田からの出発 シーボルトは、3月30日の夜に吉田宿に到着したので、吉田をほとんど見ていません。 図10-1.東海道五十三駅道中記細見双六で描かれた吉田 広重が画いた東海道五十三駅道中記細見双六(以下においては、「双六」と略称します)での吉田の絵では、豊川に架かる豊川橋の向こう側に城が描かれています。吉田城は、天正18(1590)年に豊臣秀吉の命令で家康が関東に転封された後、池田照政(輝政)が城主となっています。彼は、城の拡張や城下町の整備を行いましたので、吉田城は... -
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【連載】シーボルトの江戸への旅路 No.9―桑名から吉田(現在の豊橋)までの旅―横山 実
1.3月28日(火)―桑名からの午後の出発 シーボルトは、11時頃に桑名の城外の町に到着して、「鐘の鋳造や、その他の鉄製品を見物」(シーボルト著・齋藤信訳『シーボルト参府旅行中の日記』(思文閣出版、1983年)72頁。以下、この本は、『日記』と略記します)しています。徳川四天王の一人であった本多忠勝は、慶長6(1601)年に桑名の初代藩主になり、桑名の町を改造するために、大胆な町割りを行いました。その時、鋳物師を招き入れたので、桑名では鋳物業が勃興したのです。 その後、シーポルトは、若い... -
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【連載】シーボルトの江戸への旅路 No.8 ―石部から桑名までの旅―横山 実
1.3月26日(日)―ひと休みした石部からの出発 シーボルトは、石部の宿で少し休んだのち、「横田村の付近でアラ川・・を渡った。・・この川岸の村の手前には、金毘羅を祭って建てた巨大な灯明台で、石灯籠というもの」(シーボルト著・齋藤信訳『シーボルト参府旅行中の日記』(思文閣出版、1983年)68頁。以下、この本は、『日記』と略記します)がありました。 琵琶湖に注ぐ野洲川の源流の一つである横田川の渡しは、東海道の交通量が増えたので、夜間も運行されるようになりました。そこで、文政5(1822)...
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