【連載】シーボルトの江戸への旅路 No.8 ―石部から桑名までの旅―横山 実

1.3月26日(日)―ひと休みした石部からの出発

 シーボルトは、石部の宿で少し休んだのち、「横田村の付近でアラ川・・を渡った。・・この川岸の村の手前には、金毘羅を祭って建てた巨大な灯明台で、石灯籠というもの」(シーボルト著・齋藤信訳『シーボルト参府旅行中の日記』(思文閣出版、1983年)68頁。以下、この本は、『日記』と略記します)がありました。
 琵琶湖に注ぐ野洲川の源流の一つである横田川の渡しは、東海道の交通量が増えたので、夜間も運行されるようになりました。そこで、文政5(1822)年に、対岸への渡し場の目印として、大きな常夜灯が建設されたのです。それが建設されて4年後に、シーボルトは、東海道随一の規模を誇ったその常夜灯を見たのです。
 4時頃に水口に到着しています。水口は「城があって防備の堅固な美しい町・・で、ここで昼食」(『日記』、68頁)をとっています。

図8-1.東海道五十三駅道中記細見双六で描かれた水口

 廣重が画いた東海道五十三駅道中記細見双六(以下においては、「双六」と略称します)では、水口城の傍らを通る東海道で、人が駕籠に乗ったり、歩いたりしている様子が描かれています。シーボルトも、ここを通った時、城を見上げたことでしょう。ところで、広重は、保永堂版の東海道五拾三次之内シリーズの水口では、城を描いていません。その代わり、干瓢作りの様子を描いていたのです。

図8-2.東海道五拾三次之内 水口 名物 干瓢 

 干瓢作りは、江戸幕府が成立した慶長期の初めに、水口岡山城主の長束正家が領民に作らせたのが始まりです。その干瓢作りは、その後、下野国(現在の栃木県)の壬生に伝わりました。そして、水口の加藤藩主が、干瓢の作り方を壬生から水口へと導入したのです。この例から明らかなように、江戸時代は、藩主の奨励や保護もあって、日本の至る所で、地場産業が隆盛になったのです。
 図8-2では、旅人が通る東海道の道端で、女性たちが干瓢を作っています。赤子を背負った女性は、ユウガオの実を運んでいます。受け取った女性は、その果肉を薄く細長くむいています。そして、もう一人の女性と、道の向こう側の女性は、細長くなった果肉を乾燥させるために、紐につるしています。ほのぼのとした、この風景画は、評判となり、水口の干瓢は日本全国に知れ渡ったのです。
 水口を通ったシーボルトは、「ツツランカツラ・・という植物で編んだきれいな籠や円筒形の箱など」(『日記』、68頁)に注目しましたが、干瓢作りは気付きませんでした。これらの細工は、水口近くの山野で自生する葛藤を材料として、藩士が内職で作っていたのです。幕末には、武士も貨幣経済に巻き込まれるようになり、金を稼ぐために内職仕事に従事していたのです。
 シーボルトは、旅を急いだので、水口で昼食をとって、ただちに出発しています。大野に着いた時、うまくできた数羽の剥製の鳥を買っています。購入したうちの2羽は、白いトキと、バラ紅色の翼のトキでした。夜の8時に土山に到着し、そこで1泊しています。

2. 3月27日(月)-土山からの出発

図8-3.東海道五拾三次之内 土山 春の雨

 この絵では、鈴鹿峠を越えて来た大名行列が、野洲川の源流の一つである田村川の橋を渡ろうとしています。左上の森の奥には、蝦夷征伐で征夷大将軍に任ぜられた坂上田村麿(758年-811年)を祀った神社があります。この田村神社の言い伝えによると、「鈴鹿峠に悪鬼が出没して旅人を悩ましており、嵯峨天皇は坂上田村麻呂公に勅命を出してこれを平定させた」というのです。嵯峨天皇は、彼の死後の弘仁3(812)年の正月に勅令を出して、彼が盗賊を討伐して道の安全を確保した功を称えて、土山に祀ることにしたというのです。私は、2016年5月に、中学時代の友人に案内されて、夕方にこの神社に詣でて、大津に引き返しています。
 土山は、雨が多いので、「坂は照る照る 鈴鹿は曇る あいの土山 雨がふる」と馬子唄に詠われていました。その唄は江戸でも知られていたので、広重は、東海道五拾三次之内シリーズで 田村神社ではなく春の雨の景色を描いたのでしょう。
図8-3の絵では、右上の山地から、雨で増えた大量の水が滝のように流れ落ちています。雨傘と雨具を着用した大名行列の一行が、槍をもった2人の侍を先頭にして、増水した田村川の橋を渡ろうとしています。大名行列の姿は、絵の下部に描かれており、絵の中央には、雨が激しく降る様子を、方向が異なる2本の墨線で画いています。大胆な構図のこの絵は、広重が画いた雨景色の代表作の一つです。
 土山宿を出発して、田村川を渡り、蟹ヶ坂の山地に入りました。春の終わりでしたが、そこは冷寒で、厚い氷が張っていました。なだらかな坂を登り終えて、標高357mの鈴鹿峠に到着して、ひと休みしています。そこからは、山深い「八町二十七曲り」の急な山道を、下ったり上ったりしたのです。坂之下への道はアップダウンが険しいので、鈴鹿峠は、箱根越えに次ぐ東海道の難所といわれたのです。

図8-4.東海道五拾三次之内 坂之下 筆捨山

 シーボルトは、難所を通り抜けて、無事に坂之下に到着しました。到着すると、彼は、二、三日先行していた医師の湊長安を通じて「頼んでおいた山岳地帯の植物、若干の化石、それに非常に珍しいイモリを受け取った。この水陸両生の動物は、・・鈴鹿山やオクデ・・山の小川にすみ、そこから時々湿地に出てくる」(『日記』、68頁-69頁)のです。シーボルトは、珍しいイモリについて、日記に詳しく書いています。
 図8-4で示しているように、坂之下宿からは、筆捨山と呼ばれる山が見えました。その山の名前の由来は、「狩野法眼・・<元信、1467―1559>という画家がこの山を描こうとした時、山は次第に形を変えてゆくように見え、筆を投げ捨てた」(『日記』、70頁)という伝説に基づくものでした。

図8-5.「双六」の坂の下

 図8-4および図8-5の両方とも、谷の向こうに美しい山並みが描かれています。しかし、両方の絵で描かれている滝は、実際には存在していません。筆捨山の風景は、広重が想像で画いたものだったのです。
 坂之下宿から一里半の道程で坂を下り、関に到着して、そこで昼食をとっています。昔、この場所に関所がありましたが、それは鈴鹿の「関」と呼ばれていました。鈴鹿の「関」は、近江の逢坂関、美濃の不破関とともに、三関と呼ばれていたのです。
 関では、西の追分で大和街道が、東の追分で伊勢別街道が、東海道と分岐していました。ですから、関宿では200軒もの家が立ち並び、図8-6と図8-7で示されているように、参勤交代の一行や、西からの伊勢詣客などで、往来は賑わっていたのです。

図8-6.「双六」の関
図8-7.東海道五拾三次之内 関 本陣早立

 図8-7では、関宿の本陣に泊まっている大名の一行が、早朝に出立の準備をしている様子が描かれています。多くの大名は、城下町の亀山での宿泊を避けたので、関宿では、大名一行の早立ちの様子が頻繁に見られたのです(旅人の多くは、1日にできるだけ遠くまで歩くために、日出の直前に宿を出立していたのです)。
 大名の家来には、旅の手配を受け持つ者がいました。彼は、事前に泊まる宿を予約し、宿泊スケジュール通りに旅ができるように手配していたのです。この絵では、その任務を担当した侍が、本陣と思われる家の縁側に立って、準備の指図をしています。家の前の道には、駕籠かきが、次の宿まで客を運ぶために待機しています。
 絵の右には、宿泊する大名の名前を記した札が立てられています。この絵では、紋をつけた陣幕が張り巡らされていますが、この紋は広重の実家の田中家の家紋です。また門の前で足軽が持っている提灯の紋も、広重の「ヒロ」をデザイン化したものです。特定の大名の家紋を描くと、お咎めを受ける可能性があったので、そのような紋を描いたのでしょう。
 家の中には、休憩したり宿泊したりする者の名前を記入した札が、かけられています。この絵では、西への客として「仙女香」という文字が書かれた札も、かけられています。仙女香は、流行していた化粧品の商品名です。浮世絵は、商品の宣伝の媒体の役割も果たしていたのです。

図8-8.美艶仙女香

 美艶仙女香シリーズは、渓斎英泉が、文政期(1818年-1830年)に画いたものです。「仙女香」は、京橋南伝馬町三丁目稲荷新町の坂本屋が発売した白粉の商品名です。それは、三代瀬川菊之丞(寛政頃に活躍した歌舞伎の名女形)の俳名の「仙女」から名付けたものでした。美艶仙女香シリーズの絵では、「美艶仙女香といふ 坂本氏のせい(製造)する白粉の名高きに美人とよせて」という文章の後に、それぞれの絵の美女に因んだ狂歌が、記入されています。
 図8-8で描かれた女性は、眉毛が剃られているので、既婚の女性です。この女性の下唇は、緑色で描かれています。文化期から文政期になると、普通の女性たちも、おしゃれを楽しむようになり、白粉のほかに、笹色紅も流行しました。紅花から製造した紅をたっぷりと濃く塗って、下唇を笹色にすることが流行したのです。英泉は、笹色紅をつけた女性の大首絵を初めて画いたので、美人画の第1人者になったのです。文政期には、江戸の女性は、娘だけでなく、既婚の女性も、白粉や笹色紅などを用いて、おしゃれを楽しんでいたのですが、シーボルトは、江戸でこのような女性を見かけたのです。
 関宿で昼食をとり、12時半に同地を出発しています。関川に沿って旅を続けましたが、平坦地になると「次第にタケ藪が少なくなり、豊饒な稲田に変わった」(『日記』、70頁)のです。2時頃に亀山に到着していますが、そこは、城の近くにあるかなり大きな美しい町でした。

図8-9.「双六」の亀山

 シーボルトは、関からの1里半の道程で、この絵で描かれた城の傍らの坂道を下りて、亀山宿に入ったのです。

図8-10.東海道五拾三次之内 亀山 雪晴

 この絵は、東海道五拾三次之内シリーズの絵の中で、「蒲原 夜之雪」と並ぶ、雪景色の名作です。斜めに画面を二分する大胆な構図で、左の地平線の上には、朝焼けに染った空が「ぼかし」の手法で描かれています。大名行列の一行は、前夜に積もった雪の中を、亀山宿を出て、関に向かうために京門へと登っています(実際の道は、この絵のような急坂ではありません)。
 亀山城は、天正18(1590)年に、岡本宗憲が築いています。寛永9(1632)年には、天守閣が下ろされましたが、本多俊次が城主の時であった正保年間(1644~1648)に、その跡に多門櫓が建てられました。城の建物の大部分は、明治6(1873)年に発せられた廃城令によって取り壊されました。しかし、亀山宿の京門の近くの多聞櫓だけが残っていて、それは三重県内に唯一現存する城郭建造物として、1953年に県の史跡に指定さています。

図8-11.亀山城の多聞櫓

 私は、2011年8月に神戸で開催予定の国際犯罪学会第16回大会の実行委員会の財務および渉外を担当する副委員長を務めました。日本司法福祉学会に、大会でシンポジウムを組織してもらうために、2010年7月5日の午後4時に、同学会の加藤幸雄会長と藤原正範事務局長と打ち合わせることにしていました。そこで、当日は、早朝に東京駅から新幹線に乗り、名古屋で関西線に乗り換えて、亀山に行きました。駅前の「東海道 亀山宿」の石碑を見て、桑名宿の道を歩き始めました。西町問屋場跡や遍照寺を見た後に城跡に行って、図8-11の多聞櫓の写真を撮ったのです。

図8-12.東海道五拾三次之内 庄野 白雨

 シーボルトは、京都を出発してからは、夜半の時間を調査研究に費やしてきたので、疲れが出て、午後は駕籠の中でうたた寝をしました。ですから、彼の日記には、庄野宿の記述はありません。
 「双六」の庄野宿の絵では、平凡な宿場風景が描かれています。それに対して、東海道五拾三次之内シリーズでは、広重は、世界中に名画として知られている雨景色を描いています。
 図8-11で示されている絵には、「白雨」というタイトルがついていますが、白雨とは昼間の激しい夕立のことです。亀山への坂道で、突然の夕立に見舞われて、人々は、雨宿りの場所を求めて走っています。茣蓙をかぶった人が坂の上へと走り、その後ろで、屋根に合羽を掛けた籠を、2人の駕籠かきが、息杖をつきながら声をかけあって、急いで坂を登っています。絵の右下には、坂を駆け下る二人が描かれています。鍬を担いで農夫は、笠蓑をつけて、前かがみに走っています。青い脚絆をつけたもう一人は、強い風に向かって番傘を半開きにさしながら走っています。
 図8-11の絵では、傘に何も文字が描かれていませんが、初摺りといわれる版では、「竹のうち」および「五十三次」という文字が入っています。東海道五拾三次之内シリーズの版元である地本錦絵問屋の保永堂は、竹内孫八が営んでいたので、「竹のうち」は、版元が自分の名前を宣伝するために挿入したものと思われます。しかし、後摺りで、「竹のうち」および「五十三次」の文字が削除された理由は、不明です。
 夕方には、石薬師に着いています。

図8-13.「双六」の石薬師

 「双六」の石薬師では、石薬師寺の前の東海道を歩く人々が描かれています。石薬師宿という名前は、この寺の名前に由来しています。寺の本尊は、弘法大師が石に爪で彫ったといわれる薬師如来像です。この寺は、参勤交代の大名が必ず参詣したという名刹だったのです。
 その後で、「双六」で描かれているように、石薬師と四日市の間の日永の追分を通りました。しかし、シーボルトの日記には、この追分についての記述はありません。夜中に旅を続けて、夜の11時頃に四日市に到着して、ここで1泊しています。午後にうたた寝をしたので「観察すべきたくさんの興味深いものを見逃した・・その損失に奮起して、私は真夜中(2時)まで新しい仕事に打ち込んだ」(『日記』、70頁)のです。若いシーボルトは、寸暇を惜しんで、日本を観察しようとしていたのです。

図8-14.「双六」の参宮通りの追分と四日市

 日永の追分は、図8-14で「参宮道ノ追分」と書かれているように、東海道と伊勢街道の分岐点です。伊勢神宮への入り口ですので、二の鳥居が立っていました(の鳥居は、桑名に立っています)。しかし、夜中に日永を通過したので、シーボルトは、その鳥居に気づきませんでした。

図8-15.浮絵 伊勢太神宮両所 太々御神楽図

 この絵は、歌川派の始祖の歌川豊春が描いたもので、遠近法を取り入れた浮絵です。伊勢太神宮の両所(下宮と内宮か?)で行われた太々御神楽が描かれています。手前の客席には、裃を着た人々が列席しているので、太々御神楽は格式が高いものであったと思われます。
 太神楽師は、伊勢神宮の代理参拝人として諸国を巡り、家々のお祓いをしながら獅子舞や曲芸を披露していました。両所での太々御神楽は、太神楽師の師匠たちが演じていたのでしょう。普通の伊勢詣客は、もっと気軽に太神楽を楽しんでいたと思われます。

3. 3月28日(火)-四日市からの出発

 晴天の朝の5時半に宿を出発し、まもなく三重川(現在の三滝川)を渡っています。

図8-16.東海道五拾三次之内 四日市 三重川

 この絵では、海からの風が強い中、四日市の北側の三重川の橋を渡る旅人と、飛ばされた笠をあわてて追いかけている旅人が描かれています。傘を追いかける旅人の姿は、ユーモアが溢れています。橋を渡る旅人の合羽の裾は、風で翻っています。河口の先は伊勢湾です。今は、海岸沿いの大規模石油化学コンビナートができて、大工場が立ち並び、昔とは様変わりしています(コンビナートができた当初は、海からの強い風で煤煙がまき散らされて、多くの住民が喘息に罹患したのです)。
 この絵の初摺りでは、合羽の裾に黒色の「ぼかし」が入っています。図8-14は、後摺りですので、黒色の「ぼかし」が入っていません。後摺りでは、手間を節約するために、色版の数を減らしたり、「ぼかし」を省略したりすることがあったのです。
 三重川を渡ると、平坦な田畑が広がっていました。ナタネが植えてある田圃には、コムギや他の穀類が交互に植えられていました。
 富田で休憩していますが、そこには一里塚がありました。一里塚は、街道において約一里(約4km)ごとに設けられた休息用の塚のことです。シーボルトは、富田の一里塚を見たので「大きな街道に沿って里程が非常に正確に示してあり、道の両側に小山を築き、サクラやエノキまたはマツなどがその真中に植えてあって、里程を表している」(『日記』、71頁)と、日記に記しています。
 朝明川を渡ると、広々とした平野が開けていました。稲田では、稲とともに、経済性に富んだ穀物が作られていました。シーボルトが目撃した時には、田圃には菜種が植えてありましたが、時期によって、小麦や他の穀類が交互に植えられていたのです。「日本人は、稲田または大部分の畑から二回、時には三回もの収穫をあげる術を知っている。・・穀物の根や藁をしき、うすい肥料を毎日かけ、注意深く除草し、絶えず穀物が成長するように、よく土地に鍬を入れ」(『日記』、71-72頁)ていたのでした。当時は、多くの人手による集約農業が営まれており、農業の生産性は高まっていたのです。
 シーボルトは、午前11時頃に桑名の城外の町に着いています。
 次回は、桑名から吉田(現在の豊橋)までの旅路を辿る予定です。

筆者(横山 実)のプロフィール

1943年川崎市に生まれる。1978年から浮世絵の収集を始める。
1980年に川崎浮世絵協会の設立に参加する。
その時に、世界的に有名な浮世絵収集家である斎藤文夫さんと知り合う。
現在は、國學院大學名誉教授(元法学部教授)、国際浮世絵学会理事

引用

シーボルト参府旅行中の日記
シーボルト 著 / 著齋藤信 訳
刊行年月:1983年01月  思文閣出版

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