1.3月17日(金)―大阪からの出発
8時頃に、難波橋(現在の地下鉄「北浜駅」の近くの通称ライオン橋)近くの長崎屋を出発して、1時間ほど北に向かって町の中を進んでいます。そこで「ちょうど刑場に引かれてゆく犯罪人に出会」っています。(シーボルト著・齋藤信訳『シーボルト参府旅行中の日記』(思文閣出版、1983年)58頁。以下、この本は、『日記』と略記します)大坂には、千日刑場、鳶田(飛田)刑場、野江刑場、三軒家刑場がありました。野江刑場は、高麗橋から約一里程の東成郡野江村の京街道に面した所にありましたので、シーボルトは、その刑場に引かれていく犯罪人を目撃したと思われます。
シーボルトが通った京街道は、大阪の京橋と京都の伏見を結ぶ全長は38.5kmの街道です。その街道は、豊臣秀吉による淀川左岸の文禄堤の構築を使って設けられました。その起点は、大阪城京橋口(のち高麗橋)でした。
室町時代の末期には、戦国大名が領国支配をしましたが、彼らは治水技術を発展させました。その有名な例が、武田信玄が、天文10(1541)年から20年の歳月をかけて完成させた信玄堤です。文禄堤は、豊臣秀吉が、伏見城を築いた文禄3(1594)年から2年間で、毛利輝元・小早川隆景・吉川広家の三家に命じて、淀川の左岸の堤防を改修、整備したものです。この堤防が建設されたので、河内平野は、淀川の氾濫から守られることになったのです。
徳川家康は、慶長5(1600)年9月15日の関ヶ原の戦いに勝利しました。翌年の正月には、徳川幕府は、軍事道路の確保のために、東海道の各宿に対して、徳川家康の伝馬朱印状と、伊奈忠次、彦坂元正および大久保長安の連署による「御伝馬之定」を交付しています。その時、京街道の4つの宿場も、東海道に組み入れられています。私たちは、歌川広重の浮世絵などを通して、「東海道五十三次」という言葉に馴染んでいます。そこで、都立日比谷高校の同期生である志田威は、東海道は五十七次であるというキャンペーンをしているのです。
シーボルトたちは、淀川を渡り、大阪城の傍らを通り過ぎています。さらに、淀川の支流を渡って町に入りましたが、その町は、「馬方や人足の住むみすぼらしいあばら家で終わっている。厠の前には、馬の寝藁や草鞋がつるして乾して」(『日記』、59頁)あったのです。
江戸時代には、馬は、徳川将軍から百姓などに至るまで,あらゆる身分の人々と共に生きていました。武士の馬であれば軍馬として,農民の馬であれば農馬として、馬は人間と共生していたのです。街道の宿場には、人や荷物を運ぶ伝馬が飼われていました。当時、蹄鉄は用いられていなかったので、荷物を運んだりする馬は、馬沓と呼ばれる草鞋を履いていたのです。江戸時代の後期になると、肥料とする刈敷の材料である草葉を確保するための草苅場が減少したので、馬の糞尿は厩肥の原料として大切にされたのです。そこで、糞を拾う人がいたので、道は、馬糞や牛糞で汚れていなかったのです。当時の日本は、資源を大切にするリサイクル社会で、環境には優しかったのです。
淀川流域の平野の主な田畑は、水田でした。瀬戸内海地方と比べて、水がたくさんあったので、至る所で細い水路や水車があったのです。シーボルトは、ここで天井川を観察しています。「左岸にある田畑は、川そのものよりずっと低いので、・・田畑の安全のために、高い堤防が築かれている。この川の左岸に拡がっている田圃には、淀川から暗渠を通じて水を入れることができる。この暗渠は約18フィートの深さで堤防を貫通し、水田に流れ込む」(『日記』、59頁)のです。当時の人々は、サイホンの原理を知っていたので、暗渠などを作って、樋水を遠隔地まで流すことができたのです。
枚方村の近くでは、排水渠の所で、きっちり一尺ずつ目盛りをしてある水位計を見つけています。その水位計は、「洪水の危険を前もって知らせるために、こうした方策を講じ、危急の場合には土地の人々を守るために、彼らを呼び集めるのだ」(『日記』、59頁)と聞いています。シーボルトは、台風などによる洪水という自然災害に対して、村人が予防措置を講じていることを知ったのです。
枚方は、大阪から人々が訪れる遊楽地でした。それゆえに、遊里もありました。シーボルトは、数人の従者を連れて、商館長たちよりも1時間ほど前に先行していたので、娼婦をよく見ることができました。娼婦たちは、みんな好奇心から戸外に出て、シーボルトたちを見ていたのです。
枚方で昼食をとり、伏見への旅を続けました。シーポルトは、「枚方周辺の土地は非常に美しく、淀川の流域には祖国のマイン渓谷を思い出せる所が少なくなかった」(『日記』、60頁)ので、望郷の念を持ったのです。有名な岩清水八幡宮を訪れることができず、たいへんに残念と述べています。岩清水八幡宮は、歴代の朝廷や武家によって崇敬されてきており、日本の三大八幡宮の一つです。社殿は、淀川の南側の標高約120mの男山丘陵の峰にあります。そのために、シーボルトは、そこを訪ねる時間がなかったのです。
日が暮れる頃に、淀川と木津川の間にある淀の町に着いています。そして、木津川を渡り、淀川の橋を通って、9時過ぎに伏見に到着し、そこで1泊しています。
シーボルトたちは、陸路で伏見に行きましたが、伏見の港には、大阪からの過書船、三十石船、二十石船が行きかっていました。伏見の京橋付近は,参勤交代の西国大名の発着地でした。ですから、本陣や脇本陣が置かれ,多くの旅人で賑わっていました。シーボルトは、平穏な町を訪れたのですが、その36年後には、伏見は、公武合体派と尊王攘夷の討幕派との抗争の場になったのです。一番有名なのが、文久2(1862)年に起こった寺田屋事件です。これは、薩摩藩の定宿であった伏見の寺田屋に集結していた過激な志士を、島津久光の命令により、薩摩藩士が弾圧した流血事件です。
3月18日(土)-伏見から京都へ
シーボルトとビュルガーは、8時過ぎに、徒歩で京都に向けて出発しています。まもなく、伏見稲荷大社を訪れています。伏見の稲荷山に、稲荷大神が鎮座されたのは、奈良時代の和銅4(711)年2月の初午の日であるといわれています。江戸で一番多い神社は、五穀豊穣、商売繁昌、家内安全、諸願成就の神を祀る「お稲荷さん」でしたが、その総本宮が伏見稲荷大社です。シーボルトは、狐の神とともに「建物のどぎつい赤色とたぐいのない清浄さ」(『日記』、60頁)に注目しています。
その後に、東福寺と方広寺の傍らを通り過ぎています。東福寺は、臨済宗東福寺派大本山で、摂政九條道家が嘉禎2年(1236年)から19年を費やして建立したものです。方広寺は、豊臣秀吉が発願した大仏(盧舎那仏)を安置するための寺として創建されました。そこには、大坂冬の陣のきっかけとなった「国家安康」の鐘が置かれています。
帰路に大阪に向けて出立する6月7日には、シーボルトは、知恩院、祇園社、清水寺を訪れています。浄土宗の総本山である知恩院は、法然が晩年に住んだ草庵の場所に建てられたものです。江戸時代になってから、三門や御影堂をはじめとする壮大な伽藍が建設されたのですが、シーボルトはそこを訪れたのです。
シーボルトは、祇園社の総本社である八坂神社を訪れています。彼が訪れた時は、祇園神社あるいは祇園社と呼ばれていましたが、明治元(1868)年に発せられた神仏分離令で、八坂神社と改名したのです。清水寺は、平安京の遷都以前から、京都にありました。観音霊場ですが、今は、法相宗系の寺院です。
シーボルトは、豊国神社の「有名な太閤の墓を訪れたが、全然手入れが悪く―すっかり忘れられてしまったように見えたのには、少なからず驚いた」(『日記』、140頁)のです。近くの茶屋で、一杯のライン産のブドー酒とソーダ水を飲んで、元気を取り戻して、方広寺を訪れています。そして、「直径約8フィートの非常に大きな鐘を見物」(『日記』、141頁)しています。その後で、三十三間堂に行っています。シーボルトは、「この地で見た太閤が建立した最も古い寺院のひとつで、33,333体の仏像で有名。・・この寺院の裏では国中の名人が弓を引く慣わしがあり、的までの距離は、六十六間」((『日記』、141頁)と記述しています。
この絵は、西洋から導入された遠近法を用いている浮絵です。歌川豊春(1735年-1814年)は、従来の室内図ではなく、風景を描くのに遠近法を用いています。浮絵の名手である豊春は、歌川派の始祖と呼ばれています。歌川広重は、彼の孫弟子です。
三十三間堂は、後白河法皇の離宮内に平清盛の援助によって造営された仏堂で、豊臣秀吉によって再建されています。この絵では、120mもの距離を弓で射通す「通し矢」の様子が描かれています。人々は柵越しに、通し矢を見物しています。遠景には、寺社が立ち並ぶ東山地区の様子が描かれています。シーボルトが訪れる約70年前の京都の町の賑わいを、この絵から知ることができます。
京都の阿蘭陀宿は、鴨川の西側の「川原町通三条下ル町」にありました。繁華街の四条河原町へは、歩いて行ける距離です。
この絵は、円山応挙(1733年-1795年)が宝暦9(1759)年頃に画いた眼鏡絵です。丹波の農家出身の応挙は、京都に出て、四条通柳馬場の尾張屋中島勘兵衛という玩具商の下で働いました。尾張屋は、貴族や富裕層に高価な玩具を売っていましたが、当時の目玉商品が、オランダ貿易で輸入された「覗き眼鏡」でした。購入者は、凸レンズを嵌めた箱を通して、左右逆に描かれた絵を見ると、それが立体的に見えるのを楽しんだのです。当初は、ヨーロッパや中国で描かれた眼鏡絵も輸入されていましたが、それには限りがありました。そこで、中島勘兵衛は、応挙に眼鏡絵を描かせたのです。応挙は、若い時に眼鏡絵を描くことで、遠近法を習得したのです。そして、円山派の始祖となったのです。
図6-2は、応挙が描いた泥絵の原図で、眼鏡絵として使用されました。使用後に、掛け軸として表装されたのです(この絵は好評でしたので、後には、廉価な版画として出版されています)。鴨川の東側には、見世物小屋が立ち並んでいました。左の看板絵の所に掲げられた旗には、「長崎麒麟太夫」という曲技団の女座長の名前が、左右逆に書かれています。当時、人々が鴨川べりで、納涼を楽しんでいた様子が、よく描かれています。この掛け軸の詳細については、私の随筆集『浮世絵尽くし』(自費出版、2020年)の55頁-57頁をお読みください。なお、この掛け軸は、國學院大學に寄贈されることになっています。
シーボルトは、3月18日の午前11時頃に宿に着くと、正午に太陽の高度を測っています。食後には、訪ねて来た日本の友人たちに会っています。その一人は、蘭方医の新宮凉庭(1787年-1854年)でした。彼は、「日本では小判300枚の値打ちがある蘭書の最大の蔵書家」(『日記』、61頁)でした。夜には、門人の美馬順三の兄の美馬良右衛門が、数種の植物や鉱物を携えて、四国からやってきています。
3月19日(日)―京都での滞在(第1日目)
シーボルトは、門人たちを町に行かせ、自分の研究に役立ついろいろな物を捜させています。夜には、御所の高官である小倉中納言(55歳)が、息子と娘を同伴して、ヨーロッパ人を見るために、お忍びで宿を訪れています。商館長が、彼らを出迎えています。
オランダ商館長の参府は、幕府の監視のもとで実施されたので、朝廷の高官は、お忍びでなければ、会いに来られなかったのです。そのような状況にもかかわらず、宝永2(1705)年3月10日には、当時左大臣であった近衛家熈は、フェルディナント・デ・グロートが2度目に参府した時に、彼と京都で会っています。そして、図巻の中で、彼の姿を描いていたのです。
絵巻の最初であるこの絵では、フェルディナント・デ・グロート商館長が、従者2人を連れて馬で疾走しています。好奇心の旺盛な子どもたちが、物珍しがって追いかけています。
この絵では、物売りとともに、貴婦人が、娘、息子および供の女性2人を連れて、京都の道を歩いています。シーボルトは、「身分の高い未婚の婦人は、長い袖の着物をきている―物腰がたいそう繊細で、女らしい教養があり」(『日記』、132頁)と書いていますが、121年後に、絵の中央の赤い服を着た娘のような「身分の高い未婚の婦人」に会ったのでしょう。
庶民は、天秤棒や馬で荷物を運んでいます。シーボルトは、「細くて小さい棒を、乗馬の鞭に使う」(『日記』、127頁)と、細かいことまで観察しています。
この絵では、男児が犬をけしかけて、橋を渡る盲目の琵琶法師を追いかけています。江戸時代には、子どもの間では、いじめが横行していたのです。絵巻の最後ですので、左端には、この絵が描かれた年月日と、「左大臣 家熈」という署名が書かれています。この絵巻の詳細については、私の随筆集『浮世絵尽くし』(自費出版、2020年)の52頁-54頁をお読みください。なお、この絵巻も、國學院大學に寄贈されることになっています。
3月20日(月)―京都での滞在(第2日目)
気象観測用の器具の整備、患者を連れて来た医師への対応などで一日が終わっています。
3月21日(火)-京都での滞在(第3日目)
経度の観測をする。昨日、門人の良斎が私のところに来ている間に、「持ち銭を残らず盗まれた、という不愉快な報告」(『日記』、62頁)を聞きいています。これは二度目の盗難で、シーボルトの懐具合に大変な影響を与えました。なぜならば、「出島以外のところで自分で使う現金を用意しておくことは、著しく困難である。それゆえに不法な手段でそれを手に入れるわけであるが、・・看板の銭の相場で20%損をしなければならない」(『日記』、63頁)からです。つまり、オランダからの輸入品を入手するために、外貨との交換の闇相場が存在しており、そこで交換すると20%損すると嘆いていたのです。
3月22日(水)-京都での滞在(第4日目)
クロノメーターによる経緯と緯度の観測と、3時間ごとに気象の観測を行っています。来客が多数で、その応対に追われています。当日は、たくさんの地理学や地誌学の書籍を買っています。夜には、日本の文献の整理をしています。
3月23日(木)-京都での滞在(第5日目)
早朝、26回経度の観測を行っています。
3月24日(金)-京都での滞在(第6日目)
「旅立ちは、天皇が江戸に遣わす勅使のため」(『日記』、62頁)、遅れていましたが、明日、出発と決まりました。そこで、別れる友人に、贈物をしたり、頼みごとをしたりしています。
次回は、京都から石部への旅路について、歌川広重の保永堂版の東海道五十三次の絵などを示しながら、説明する予定です。
1943年川崎市に生まれる。1978年から浮世絵の収集を始める。
1980年に川崎浮世絵協会の設立に参加する。
その時に、世界的に有名な浮世絵収集家である斎藤文夫さんと知り合う。
現在は、國學院大學名誉教授(元法学部教授)、国際浮世絵学会理事
シーボルト参府旅行中の日記
シーボルト 著 / 著齋藤信 訳
刊行年月:1983年01月 思文閣出版