ギッチョムの気仙沼だより(27)「海と生きる・気仙沼湾の防潮堤」

 目の前に気仙沼内湾の穏やかな港の景観が広がる。湾口北側にはエビス像の立つ「浮見堂」、そして対岸にはサンマ船が舫う岸壁。そして南に向かい、遠洋マグロ船などの大型船がずらりと並ぶ桟橋へとつながる。
 凪いでいる気仙沼内湾は、まるで湖面のよう。この景観こそが気仙沼の核とも言える私たち・気仙沼人の「命」でもあるのだ。
 海の幸をもたらす海への出入り口であり、なりわいの場であり、そして生活の底を支える私たちのランドマーク。まさに「海と生きる」と決めた私たちの精神に根差した原風景なのだ。
 東日本大震災後、国が定めた防潮堤の整備という極めて高いハードルを乗り越えて、気仙沼人が知恵と努力を結集して「守り抜いた」風景であり、整備した宮城県にとっても「住む人に寄り添い」成し遂げた官民協同の成果である。
 その「成果」は、よほど建築物に関心がない人にとっては「気仙沼内湾のどこに防潮堤?」と首を傾げてしまうほど見事な「仕事」だった。

 二つの写真を並べる。最初のは通常時、海と陸側を繋ぐ開口部から海側を今年、2025年5月に撮影した。2枚目は、12月12日午後1時半過ぎに撮影した同じ場所。防潮堤が閉められている。4日前の12月8日午後11時15分に青森県東方沖を震源とするマグニュチュード(M)7・4の地震の「後発地震」で、気仙沼市にも津波注意報が発令。発令後すぐに遠隔操作で閉鎖された。

 気仙沼湾は、リアス海岸であり、沖合から小さな浜が連なり、奥へ奥へと誘う形態だ。私たちが内湾と称するのは、概ね気仙沼市魚市場から北東部へとつながる最奥部分を指す。
 そこには前述したように大型漁船が居並ぶ「出漁準備岸壁」があり、そして冒頭記した風光明媚な「日本百景」にも選定された「ザ・港まち」風情に溢れる景観だ。
 この景観と防潮堤はどう同居しているのか?
 それは三つ「合わせ技」からなる。まず一つ目は、①出漁準備岸壁の「無堤化」だ。「防潮堤整備なのに、なぜ堤防がない?」。その区間の陸側100mには石灰岩の崖がある。その上に、気仙沼を代表する観光ホテルが2棟建つ。
 この崖を「天然の防潮堤」にしたのだ。この区間は工場などはあるが、東日本大震災後、居住できない区域に指定された。関係者全員が「船が並ぶ景観を損なう防潮堤はいらない。商売的にも不便」と合意。万が一、大津波が来たら「建物や機材などの被害を覚悟する」という心意気での決断だった。
 気仙沼市の南約80キロにある女川町も、中心商店街を湾の前面に整備したが、防潮堤は造らない選択をした。住家は高台へ整備。しかし商店街は「津波で被害を受けたら、また整備する」という決意で、海が見える景観を選んだ。青い海が目の前に広がる商店街は、素晴らしいロケーションで、気仙沼人と同じく「海と生きる」という決意が生み出したーと多くの人が高く評価している。
 二つ目が、写真にあるように観光・商業・まちづくりを主としたビルと合体した②施設一体型防潮堤だ。ビルには海面から5・1m、地盤からは3・3mの防潮堤が隠されている。施設の1階部分の商店や駐車場、そして築山形状の公園に「仕込まれている」。海側から見ても、施設へとつながる階段が見える。陸側からも違和感はない。「この施設自体が防潮堤」と伝えると、気仙沼人以外の人は皆驚く。いや私事で恐縮だが、私の妻も、友人の妻も「知らなかったし、言われてもピンとこない」と驚いた。
 「いやいや、それでも分かる」という人もなくはない。しかし震災前、内湾最奥部には無粋な自走式、市営駐車場とさもない汽船発着場があり、観光面ではマイナスな景観だったと断言してもいい。今回、震災で内湾一帯は大きな被害が出たが、住民が知恵を出し合い、商業・観光を前面に押し出した空間を防潮堤をなるべく目立たない形で織り込んだ整備は白眉だった。
 そして三つ目。それは③内湾北側岸壁へのフラップゲート設置だ。フラップゲートとは、津波が押し寄せた際に、その浮力で自動的に立ち上がり防潮堤の一部となる浮上式堤防の採用だ。通常は「伏せてあるアルミ合金製堤防」だ。
 地盤の嵩上げと組み合わせ、海を望める堤防の高さを限りなく低くした。

 ①②③とも、住民が主体となりアイデアを出し、整備する宮城県が技術的な知恵を凝らし、官民が力を合わせて実現させた成果だ。もちろん縁の下で全面的に底支えした気仙沼市の努力も忘れることはできない。
 実は防潮堤の整備には、後悔に陥った浜も多くある。気仙沼市は、大谷海岸、大島の表玄関・浦の浜など多くの場所が、海との共存を勝ち得た。
 震災後の最大の課題であった防潮堤と、私たち気仙沼人が守りたかった「海の景観」。その経緯は波瀾万丈あり、感動的でもある。その辺りは、拙著「港まち記者の卒論」をぜひお読みいただきたい。
 まちづくり・官民協同、自然との共生など、多くのヒントが詰まった事業であった。
 東日本大震災から、3カ月足らずで15年。何回も同じことを言うが、大地震・大津波はいつどこで発生してもおかしくない。震災への備え、そしてアフターを今から考えておくこと。本当に、本当に必要なのだ。私はもちろん、皆が肝に銘じたい。

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