【連載】シーボルトの江戸への旅路 No.7 ―京都から石部までの旅―横山 実―

1.3月25日(土)―京都からの出発

 シーボルトは、「12時に険悪な天候をついて京都を発ち、四条を渡」(シーボルト著・齋藤信訳『シーボルト参府旅行中の日記』(思文閣出版、1983年)64頁。以下、この本は、『日記』と略記します)ったのです。

図7-1.東海道五拾三次之内 京師 三条大橋

 歌川広重は、保永堂版の「東海道五拾三次之内」シリーズで、江戸から順番に東海道の55の宿場を画きました。その終点は、京師(「京師」は皇帝の都を意味しますので、日本では「京都」がそれに該当したのです)の三条大橋でした。
 図7-1では、西側から鴨川に架かった三条大橋が描かれています。橋の右側には、地元民と思われる人々が、祇園の方向に歩いています。その先には、大津から上納荷を運ぶ人足たちや、駕籠に乗った殿に従う武士の一行が描かれています。
 祇園の家々の先には、知恩院、祇園社、清水寺などの屋根が描かれています。東山の向こうに聳えているのが、比叡山です。
 保永堂は、シーボルトが参府した8年後の天保5年(1834年)頃に、このシリーズを出版して成功を収めましたが、これによって広重の名声が高まったのです。このシリーズをめぐっては、広重が終点である三条大橋に行ったのかについて論争があります。なぜならば、当時の三条大橋は、一部は石製の基礎杭の橋でしたが、広重は木造の橋を画いていたからです。

図7-2.東海道五十三駅道中記細見双六で描かれた京都

「第1回 シーボルトの江戸への旅路―東海道53次の浮世絵で辿る―」で書きましたように、保永堂版の「東海道五拾三次之内」シリーズで風景画家の第1人者としての地位を築いた一立斎広重は、版元の山本平吉の注文で、東海道五十三駅道中記細見双六(以下においては、「双六」と略称します)の版下絵を画いています。それは、弘化4(1847)年に出版されましたが、図7-2で示されているように、その双六の上りの京都の絵では、保永堂版と同様に、木造の橋が描かれています。この事実からは、広重は、終点である三条大橋を実際には見ていなかったと推測できます。
 それでは、広重が江戸から京都まで旅したという説は、どうして出てきたのでしょうか。その説の根拠は、飯島虚心が書いた『浮世絵師歌川列伝』の中で、三代広重から聞いた言葉として、「天保の初年、広重幕府の内命を奉じ京師に至り、八朔御馬進献の式を拝観し、細に其の図を画きて上る」と紹介されていたからです。確かに、保永堂から出版された「東海道五拾三次之内」シリーズ中の藤川宿の図では、御弊をたてた駒の御馬献進の一行が、棒鼻が立っている門から、藤川の宿場に入る様子が描かれています。
 広重は、幕府の定火消同心の安藤家に生まれたのですが、安藤家由緒書きのなかには、幕府から依頼されて八朔御馬進献の儀に広重が参加したという記録はありません(稲垣進一「検証 保永堂版・東海道五拾三次の謎」、国際浮世絵学会編浮世絵芸術NO.142、2002年、8頁)。この事実からも、広重が京都まで旅して三条大橋を見たという見解には、疑問が投げかけられます。なお、浮世絵の絵師の多くは、低い身分の者でしたので、広重は、以前は、別格の絵師として「安藤広重」と呼ばれていました。しかし、今では、国際浮世絵学会の提唱により、彼は、歌川派の絵師として「歌川広重」と呼ばれています。
 シーボルトが参府旅行する29年前の寛政9(1797)年には、『東海道名所図会』が出版されています。天保5年(1834年)頃に、保永堂は、「東海道五拾三次之内」シリーズを出版しましたが、そのうちの26の宿場の絵については、『東海道名所図会』からの引用が指摘されていて、その一枚が京師の図です。なお、当時は、版権は今よりもうるさくなかったのですが、それでも、幕末には、版元は版権を意識するようになっていました。ですから、版元の山本平吉が出版した東海道五十三駅道中記細見双六では、保永堂版の絵がそのまま使われていません。

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 3月25日には、シーボルトは、東海道の西から旅の始点である三条大橋を渡らずに、四条大橋を渡って東海道を歩き、山科へと向かっています。シーボルトは、「そこでたくさんの車に出会った・・。車は特別に頑丈な造りで、車輪の丈はたいへん高く、轍(わだち)の幅は広かった。車は牛が引いていた」(『日記』、65頁)のです。

図7-3.東海道五拾三次之内 大津 走井茶屋

 東海道と中山道は、草津の宿で合流していました。ですから、草津から京都までの間の道では、重い荷物を運ぶ牛車が列をなしていたのです。図7-3で示されているように、大津宿から山科に行くには、難所の逢阪峠を越えるので、頑丈な造りの牛車が用いられていたのです。

図7-4.東海道五拾三次之内 大津 走井茶屋(部分)

 この絵で描かれている「走井」とは、「地下から溢れて湧き出る清水」を意味します。逢坂関所跡の逢坂大谷には、図7-4で示されているように茶屋がありました。その茶屋の前では、旅人が走井で洗濯しています。茶屋では、この清水を使って餅を作り、走井餅として旅人に売っていました。逢坂大谷では、大津絵も売られていました。

図7-5.大津絵つくし

 「大津絵つくし(尽くし)」のシリーズは、歌川国貞、後の三代豊国(1786年-1864年)が、文政時代(1818年-1831年)に画いたものです。このシリーズでは、当時の市井の美人が描かれていますが、シーボルトは、江戸でこのような美人を見たことでしょう。このシリーズでは、コマ絵として大津絵が描かれています。図7-5の右上のコマ絵では、「外法と大黒の梯子剃り」が描かれています。長頭の寿老人の頭に梯子を掛け、大黒が彼の禿頭を剃っている姿を描いた絵です。
 大津絵は、庶民の旅の土産物として逢坂大谷で売られていました。それが全国的に有名になったのは、近松門左衛門作の人形浄瑠璃「傾城反魂香」(宝永5(1708)年に大阪の竹本座で初演)で、肉筆浮世絵の始祖である岩佐又兵衛をモデルにした、吃のある浮世又平(通称「吃又」)が登場したからです。欲のない吃又は、大津絵を描いて生計を立てたという設定でした。そこで、人形浄瑠璃および歌舞伎で「傾城反魂香」が大評判になったので、大津絵が全国に知れ渡ったのです。なお、岩佐又兵衛については、私の随筆集『浮世絵尽くし』(自費出版、2020年)の48頁-51頁をお読みください。

図7-6.鬼の念仏

 この絵は、三井寺の門に飾られている大津絵「鬼の念仏」です。大津絵は、数種類の画題で描かれましたが、「鬼の念仏」はそのうちの一つです。恐ろしい鬼が、念仏を唱えて布施を乞いながら歩いていますが、鬼は、胸に鉦を掛け、左手に奉加帳、右手に撞木を持ち、片方の角が折れているという、ユーモアのある姿で描かれています。
 逢坂大谷の茶屋で待機していた絵師は、絵を注文する旅人に「藤娘」、「瓢箪鯰」などの数種類の画題の中から、一つを選んでもらいます。そして、パターン化した画題の絵を、安い泥絵の具で即座に描いたのです。即座に描くので、多売が可能で、1枚の絵の価格は安かったのです。ですから、庶民の京都からの旅の土産物としてよく売れたのです。 シーボルトは、逢坂大谷の茶屋を素通りしたので、大津絵には気が付かなかったのです。
 シーボルトは、逢坂を下り、「有名な湖水・・の南南東の側にある大津の町に着いた。この町の街道筋に立ち並ぶ家々の造りや、もっぱら食料品や旅行の必需品を置いている店がたくさんある」(『日記』、65頁)のを目撃しています。大津から草津の間では、たくさんの人が通ったので、旅人目当ての商売が繁昌していました。シーボルトは、一軒の茶屋に立ち寄り、湖の中に突き出た露台ですばらしい景色にみとれていたのです。

図7-7.「双六」の大津

 「双六」の大津の絵では、琵琶湖に沿って旅人が歩いています。シーボルトは、逆方向に歩いたのですが、この絵で描かれたような美しい風景にみとれたのでしょう。「双六」では、「大津」の字の下に「京都へ三里」と書かれています。名所の「唐崎の松」に寄らなければ、三里の道程で、双六の上りの京都に着くことを示していたのです。
 シーボルトは、美しい城のある膳所の町を通り過ぎています。そして、鳥を撃つための湖上の幾つかの小屋を目撃しています。瀬田の町で夜のとばりがおりて、9頃に草津に着き、そこで一泊しています。

図7-8.東海道五拾三次之内 草津 名物立場

 東海道と中山道は、草津宿で合流しています。そのために、草津宿の道の往来は頻繁でした。図7-8では、手前には、上納荷を運ぶ人足たち、その向こうには、早駕籠を担ぐ4人の人足が描かれています。右手奥は、琵琶湖の矢橋湊への入り口です。

図7-9.東海道五拾三次之内 草津 名物立場(部分)

 伊勢詣の客も通るので、草津の宿には沢山の旅籠がありました。図7-9で示されているように、「姥が餅」を売っている大きな立場(休憩所)がありました。立場の右端では、杖を持っている旅人、おそらく、伊勢詣での旅人が、座席待ちしています。シーボルトによれば、旅人のために「草津では、おもにタケの杖を売っている。モウソウダケというもの」(『日記』、127頁)の杖を売っていたのです。座席待ちをしている客の手前では、女が餅をこねています。立場の中では、客が座敷に坐って餅を食べながら休憩しています。

2.3月26日(日)―草津からの出発

 7時に草津を出発しています。まもなく、間の宿(宿場と宿場の間にある休憩場所)の梅ノ木村に到着しています。シーボルトは、間の宿の本陣である「名高い薬屋の、たいへん手入れのいい庭園で休んで元気」(『日記』、66頁)を取り戻しています。彼は、そこで、神教丸、万金丹、和中散、天真膏などの薬のうちから、幾種類を買い求めています。※1)
 ここの主人は、「昨日草津で使節を招待したが、使節は彼に敬意を表わさず、彼のところでひと休みしない」(『日記』、67頁)のを残念がっていました。

※1)この薬屋である大角家住宅本家(滋賀県粟東市六地蔵)については、OAGドイツ東洋文化研究協会の大井剛が、2023年12月11日に開催されたOAGシーボルトゼミナールで報告しています。なお、私は、中学時代の友人の案内で、2016年5月にこの薬屋を訪れています。

そこで、シーボルトは、使節の非礼について詫びて、主人と彼の家族に贈り物を渡しています。シーボルトは、庭園を見て、主人が植物の愛好家と思ったので、「周辺の山地から私のために数百種の植物を採集して、京都経由で同地にいる私の友人を通じて出島に送らせるように頼んだ」(『日記』、67頁)のです。
 シーボルトは、帰路の5月31日には、朝早く石部を発ち、行列に先行して梅ノ木村に行っています。そこで、薬屋の主人に会いましたが、「すでに1か月前に立派な採集物を向こうに送ってくれたと聞いて」(『日記』、127頁)シーボルトは満足しています。シーボルトの天然物の採集は、多くの日本人の協力を得て行われたのです。
 シーボルトは、歩いて旅を続けましたが、一頭の馬に乗った家族が近づいて来るのに出会っています。この乗り物は、仏法僧の三宝を守護することにちなんで「三宝荒神」と呼ばれていました。「馬は普通の駄馬で、両脇には、タケで編んだ長方形の籠をつけ、普通はその中に婦人か子供が旅行用具を持って乗り、両方の籠の間にある鞍に主人が乗って馬を御すのであるが、下男が口をとることもまれではない。こういう乗り方は、気軽に旅行することができると同時に、言葉を交わすよい機会にも恵まれている」(『日記』、67頁~68頁)として、シーボルトは、三宝荒神を絶賛していました。

図7-10.伊勢詣の道中を描いた摺り物(左側)

 この摺り物は、寛政時代(1789年-1801年)の末期に作られたと推測されています。狂歌の愛好者グループが、伊勢詣した記念として、自分たちが作った狂歌を記録するために制作され、仲間内で配布されたものです。旗本、御家人および裕福な商人たちは、狂歌の愛好者クループを形成していました。彼らは、摺り物の制作の資金に恵まれていたので、窪俊満(1757年-1820年)および山東京伝(1761年-1816年)という当代一流の絵師に、挿絵を画かせたのです。
 摺り物の右側の挿絵は山東京伝が描き、図7-10で示す左側の挿絵は、窪俊満が担当しています。その挿絵では、母と子供2人が乗っている三宝荒神が描かれています。ここでは、鞭として使用する小枝を持った人足が、馬の口をとっています。大道芸人が、伊勢詣する旅人のために演じている姿も描かれています。三宝荒神の右に描かれている、緑色の帽子をかぶっている3人は、見世物の対象の小人です。右端の女は、盲目の瞽女(ごぜ)です。彼女たちは、三味線を奏でながら瞽女唄を歌い、旅人からお金をもらって生計を立てていたのです。

 シーボルトは、「石灰を焼く大きな窯の傍らを通り過ぎて」(『日記』、68頁)、石部に到着し、そこで少し休んでいます。石灰岩が産出されていたので、石部での石灰製造は、寛政5(1793)年に内貴勘助が始めています。その後、文化2(1805)年に、井上敬祐が石灰製造の窯を設けていますが、シーボルトは、その窯を見たと思われます。

図7-11.東海道五拾三次之内」 石部 目川の里

 この絵は、広重が『東海道名所図会』(1797年刊)を引用して画いたと推測されています。茶屋の伊勢屋の前の道では、伊勢詣帰りの旅人たちが歩いています。伊勢屋の名物は、菜飯と田楽豆腐でした。シーボルトは、伊勢屋でひと休みしたと思われます。

 次回は、石部から桑名への旅路について説明する予定です。

筆者(横山 実)のプロフィール

1943年川崎市に生まれる。1978年から浮世絵の収集を始める。
1980年に川崎浮世絵協会の設立に参加する。
その時に、世界的に有名な浮世絵収集家である斎藤文夫さんと知り合う。
現在は、國學院大學名誉教授(元法学部教授)、国際浮世絵学会理事

引用

シーボルト参府旅行中の日記
シーボルト 著 / 著齋藤信 訳
刊行年月:1983年01月  思文閣出版

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