【連載】シーボルトの江戸への旅路 No.3 ―長崎から下関への旅―横山 実

1.長崎からの旅立ち

 シーボルトは、長崎に到着してから2年半後の1826年2月に、参府旅行に加わって、長崎から江戸に向かうことになりました。参府旅行では、使節であるカピタン(オランダ商館長)ステュルレルに、長崎奉行所の役人、阿蘭陀通詞、料理人たちが同行しました。オランダ人の随員の定員は、医官と書記官の各1名でした。そこで、医官のシーボルトとともに、ビュルガーが「書記」として参府旅行に参加しました。地層学者であるビュルガーは、前年に、シーボルトの日本調査を手助けするために、オランダ領東インド総督によって派遣された人物でした。ですから、旅行の間、シーボルトの測量などで助手として働いています。また、川原慶賀が画家として加わり、参府旅行中、シーボルトが望むものをスケッチしました。

 旅立ちの日は、1826年2月15日でした(シーボルト著・齋藤信訳『シーボルト参府旅行中の日記』(思文閣出版、1983年)7頁。以下、この本は、『日記』と略記します)。なお、ここで注意していただきたいのは、『日記』では太陽暦で日付が記されているということです。ですから、当時日本で採用されていた太陰暦では、文政9年正月9日に、シーボルトは、長崎を旅立ったのです。以下、下関までの旅路を辿ることにします。

2.2月15日(水)―長崎から諫早への旅路

 朝8時に出島を出発して、桜馬場で見送りの人々と別れています。桜馬場は、長崎街道の起点で、真言宗の威福寺がありました。妻の「滝さん」たちと、そこで別れたのでしょう。長崎街道を歩いて矢上宿に到着し、そこで昼食をとっています。頂上に雪をかぶった雲仙岳を眺めたりして、天草島の景色を楽しんでいます。しかし、島原地方には、貧しい家に生まれた多くの少女が、遊女や娼婦として売られていたことには気づかなかったようです*1。
 大村湾の美しい眺めを楽しみながら、整備された並木道を通って、7時半に諫早に到着し、そこで一泊しています

*1 山崎朋子著『サンダカン八番娼館』(筑摩書房、1972年)で書かれているように、江戸時代から明治時代の初めには、たくさんの少女が海外に娼婦として売られていたのです。

3.2月16日(木)―諫早からの旅

 7時に諫早を徒歩で出発しています。翌日に30歳の誕生日を迎えるシーボルトは、元気でしたので、日本を観察するために、できるだけ、籠には乗らず、徒歩で旅したのです。11時頃に大村に到着したので、そこで、正午には緯度を計測しています。シーボルトは、旅の間、正午に太陽が見えるときは、緯度を計測するようにしていたのです。
 食後に貝が運ばれてきましたが、「そのなかには、日本で非常に需要の多い真珠」(『日記』、8頁)が入っていたのです。大村湾で採取された真珠の歴史は古く、1300年前には、ここで採取された真珠は、献上品として使われていたといわれています。シーボルトが訪れた頃には、藩主が、領民の採取した真珠を独占し、それを販売して利益をあげていました。
 シーボルトは、大村地方での天然痘の流行に注目しています。そして、「接触伝播性のこの病気を防ぐために、山伏が藁縄を張りめぐらせるのには感心」(『日記』、8頁)しています。山伏たちは、医学的知識に乏しかったのですが、厄除けの藁縄が、天然痘患者からの病原菌の伝播を防いでいたので、感心したのです。その日の夜は、彼杵で宿泊しています。

4.2月17日(金)―彼杵からの旅

 7時に、雨天をついて彼杵を出発しています。10時頃に二ノ瀬付近で、武雄神社のご神木を見ています。それは、樹齢3千年以上のクスノキのご神木でした。シーボルトは、植物学者ですので、神が宿るご神木という考えを持たず、珍しい大木として測定し、幹回りが16.9メートルであると記録しています。
 嬉野で食事して、蓮池藩の湯治場で、科学者の目で温泉を観察しています。そして、シーボルトたちは、藩主の浴室で入浴しています。嬉野では、明治時代になって「シーボルトの湯」という洋館が建設されました。現在の建物は、5代目で、2010年に再建されたものです。
 嬉野を出発して、塚崎宿に到着しました。この宿には、本陣の他に、2軒の旅籠屋がありましたが、シーボルトたちは、温屋を併設した本陣に泊まったと思われます。

5.2月18日(土)―塚崎からの旅

 氷が張り、寒さが身に染みる中、6時に塚崎を出発しています。竜王の近くには、灌漑用の人工の池があり、そこには、ウナギ・コイ・フナ・ナマズが生息していました。浮本では、石炭の露天掘りを見ています。
 1853年にアメリカの黒船が来航して以来、日本にも蒸気船が走るようになりました。明治時代に富国強兵の方針が打ち出されると、蒸気を利用した船や機関車などのために、石炭の需要が高まり、筑豊炭鉱が栄えます。シーボルトが訪れた浮本付近では、大量採炭に先駆けて、石炭の露天掘りが行われていました。当時、そこで採れた石炭は、薪に代わる燃料として、製塩業で用いられるようになっていたのです。
 休憩は、小田宿でとりました。この宿では、シーボルトは、馬頭観音の像を見ています。馬頭観音は、観世音菩薩の6つの化身の一つで、江戸時代の庶民は、馬の無病息災の守り神とし信仰していました。小田宿の馬頭観音は、樹齢1200年以上経つ「クスノキの幹に刻まれて」(『日記』、11頁)いたのです。
 牛津で昼食をとり、肥前の首都の佐賀に入っています。「通過するのに1時間何分かを要し」(『日記』、11頁)ています。その後で、境原などの村々を通りましたが、その時、「多くの陶土と塩に気付い」(『日記』、11頁)ています。しかし、伊万里焼や有田焼の窯は、長崎街道から離れているので、シーボルトは、そこを訪れることはできませんでした。その夜は、8時半頃に神崎に到着して、そこで1泊しています。

6.2月19日(日)―神崎からの旅

 6時半に宿を出発するとき、シーボルトは、大通詞が盗難に遭ったという噂を聞いています。長崎街道といった主要街道は、比較的安全なのですが、それでも物を盗まれることがあったのです。太刀洗川の付近には、「昔、山賊で有名な」(『日記』、12頁)峠があったということでした。
 轟木で正午になったので、太陽の高度を測り、田代で昼食をとっています。6時頃に山家に到着しています。ビュルガーの記録によると、その晩には、宿の主人の鉱物コレクションを見ています。それらは、大宰府の霊峰である宝満山から採取してきたものでした。ビュルガーは、「一片ノ大キナ木ノ見ツ」(『日記、13頁』)けていました。

7.2月20日(月)-山家からの旅

 7時前に山家の宿を出発しましたが、九州の箱根と呼ばれる程の難所の山道でしたので、重い荷物を担って峠へと登るのは大変でした。冷水峠の頂上には茶屋があり、その茶屋で、上検使(参府旅行の実情を確認するために、奉行所などから派遣される役人の上席)が待っていました。シーボルトは、上検使と酒を酌み交わして、通詞を通して懇談しました。そこで、上機嫌になった上検使は、茶屋の主人に「私が返ってくる時までに、この地方の珍しい天然物を集めておくよう命じて」(『日記』、14頁)くれたのです。
 雨天の中、山岳地帯の旅を続けましたが、シーボルトは、隠花植物の調査が続けられないのを残念に思っていました。山の麓の長尾村では、数え年18歳の異常な男性を見つけて、彼の体型を詳細に測定しています。その後、ビュルガーの記録によると、「大キイ石炭ノ層ヲ認メ」(『日記』、16頁)ています。肥沃な平野地帯に入りましたが、夜になり、これ以上の調査は不可能となりました。長い距離を旅したので、「非常に疲れを覚え」(『日記』、17頁)たのです。直方付近のノヅ川(遠賀川?)を船で渡り、夜の11時頃に木屋瀬の宿に到着しています。

8.2月21日(火)-木屋瀬からの旅

 雨天の中、8時過ぎに宿を出発しています。平地の畑では、大麦が蒔かれていました。ガン、カモ、ツル、カラスなど、たくさんの鳥が生息していました。シーボルトは、鳥を追い払うための鳥おどしや、案山子に注目しています。茶屋原を通り過ぎましたが、この土地の人は、七福神のうちのひとりである「恵比寿を信仰している」(『日記』、18頁)のに気付いています。
 黒崎で少し休憩をとった後、清水村の近くで、筑前と豊後の境界を示す標柱の傍らを通り過ぎています。小倉の郊外の原町には、城主の家来たちが住んでいました。彼らの住居には、「タケやキヅタやイトスギの生垣」(『日記』、19頁)がありました。小倉の門に到着しましたが、シーボルトは、「城壁には銃眼が―壕には水がある―門内の番所」(『日記』、19頁)と、厳しい警護体制を観察しています。
 小倉には、阿蘭陀宿がありましたが、そこに到着すると、カピタンは出島の留守役に手紙を出して道中の経過について報告するのが慣行でした。専用の阿蘭陀宿でしたが、シーボルトの印象では「宿舎は悪かった」(『日記』、19頁)のです。城主の使者がきたので、住民や武士のことなどを質問したのですが、彼は何も答えなかったので、小倉の阿蘭陀宿の印象が悪くなったのかもしれません。シーボルトは、小倉に到着するとすぐに、駆けつけてきた門人たちに、天産物、書籍、地図など、調査に役立つものを探して、持ってくるように言いつけています。

9.2月22日(水)-小倉から下関へ

 朝方には、早速、数羽のツルを受け取っていますが、その中には珍しいクロツルもありました。12時頃に満潮になった時、下関に渡る予定でした。シーボルトは、出立する前に、橋の上から下関への海峡を観察することにしました。上検使からすぐに許可が得られたので、ビュルガーを含む数人とともに、原本川と呼ばれる川に架かっている木橋に行きました。ここで、懐中磁石などを使って急いで観測をしたのです。観測をしている間、川原慶賀には、スケッチさせています(『日記』では、「川原慶賀」という固有名詞ではなく、「画家」と記されています)。観測の後で、城に向かいましたが、シーポルト一行を見るため、たいへんな人だかりができので、引き返さざるをえなかったのです。12時頃に船に乗りました。巌流島と与次兵衛瀬との間を通った時には、ガン、カモ、ウミウ、アビ、ウミツバメなど、おどろくほどたくさんの海鳥がいたのを認めています。
 下関では、大町年寄の伊藤家と佐甲家が、交代で阿蘭陀宿の業務を務めていました。両家とも、阿蘭陀文化に心酔しており、阿蘭陀風の趣向をもって、カピタン一行を歓待していたのですが、シーボルトたちは、港で佐甲家の主人に出迎えられたのです。そして、その晩には、阿蘭陀文化の心酔者の伊藤杢之允盛永(彼の阿蘭陀名は、ファン・デン・ベルヒです)が、挨拶にやってきました。このような歓迎を受けて、シーボルトは、「これまでの疲れがとれ、元気をとりもど」(『日記』、21頁)したのです。

10.2月23日(木)-下関での滞在(1日目)

 門人たちが、来訪しています。彼らが連れて来た患者が、シーボルトの診察を乞うていました。川原慶賀には、スケッチさせるために、竹崎に行かせています。

11.2月24日(金)-下関での滞在(2日目)

 好天だったので、正午には、太陽高度の測定を行っています。その後で、シーボルトは、阿弥陀寺(現在の赤間神宮)から九州の早鞆岬に渡ってもよいかと、上検使に尋ねています。上検使は、前例はないけれども、シーボルトの調査・研究を助成するため、早鞆に渡る許可を特別に与えてくれたのです。壇之浦の戦いが起きた場所は、早鞆の瀬戸と呼ばれており、海峡の幅が最も狭く潮の流れが激しいところです。シーボルトは、この海峡をファン・デル・カペレン海峡と名付けています。シーボルトは、この海峡の観察に多大な関心を持ちました。
 ビュルガーの記録によると、まず阿弥陀寺を訪れましたが、そこでは、滅亡した平家とともに幼い安徳天皇が入水した悲劇を聞いています。次いで、小舟に乗り、海峡を横断して早鞆に行っています。海岸では、たくさんの海藻類、若干のヒトデ、クラゲ、カニ、貝類などを見たのです。それから、早鞆の社を訪れましたが、そこで、神官から厄除けの御守りとして饌米を贈られています。
 夕方5時に下関に戻りました。ビュルガーの記録によれば、その後、第一ノ町年寄から、友好的な歓迎を受けたのです。その人は、オランダ貿易の長官から阿蘭陀名を付けてもらったというので、伊藤杢之允盛永と思われます。伊藤は妻とともに接待してくれましたが、「よーろっぱ風ノ家具ヲ備エツケタ部屋(・・)ニ招キイレ、よーろっぱノヤリ方ヲ真似テ、一晩中ワレワレヲ喜バセテクレタ」(『日記』、27頁)のです。宴会では、若く美しい娘たちが、給仕してくれました。夜には、飼い馴らしたネズミを使う奇術師が出演しています。ネズミは、踊ったり、いろいろな芸を見せてくれたのです。このようにして、大変愉快な一夜を過ごすことができたのです。

図3-1 ネズミを飼う女
図3-2 ネズミを飼う女(部分)

 第3図は、柱絵です。柱絵は、節だらけの柱を隠すために作成されたといわています。奥村政信が考案したのですが、鈴木春信、磯田湖龍斎、鳥居清長、喜多川歌麿、菊川英山たちが画いています。図3は、春信が1770年に死去した後、美人画の第1人者になった磯田湖龍斎が画いたものです。湖龍斎が活躍し始めた頃, 人に害を及ぼさない「コマネズミ」や「ナンキンネズミ」、人に富貴をもたらすとされた「福ネズミ」などが愛玩動物になっていました。1775年には、鼠の飼育の入門書として、春帆堂主人〈春木幸次〉著『養鼠玉のかけはし』が出版されています。図3は、その本が出版されたころに画かれたと思われます。女性は、左手で鼠(毛が黒い「熊鼠」かもしれません)を抱き、右手で餌を与えています。この女性の着物の裾がはだけて、大腿部が見えていますので、この絵は、「あぶな絵(エロチックなきわどい絵)」です。鼠の飼育が流行し始めてから約50年後に、シーポルトは、下関でネズミの曲芸を見たのです。

12.2月25日(土)-下関での滞在(3日目)

 午前中は、近郊からきた患者に取り囲まれて、彼らを診察したり、外科の治療を施しています。訪ねて来た上検使とは、1時間以上話しました。彼は、以前出島の傍らを通り過ぎたとき、シーボルトのコレクションに関心を持ちました。そこで、彼には、顕微鏡を使って、花の生殖部やコケの種子などを見せたのです。その後で、シーボルトは、好天でしたので、クロノメーターによる経度や、正午の太陽の高度を測定をしています。
 正午過ぎには、シーボルトは、ビュルガーとともに壇の浦に行き、湾を詳しく測定しています。また、川原慶賀には、ファン・デル・カペレン海峡をスケッチさせています。
 同行した伊藤杢之允盛永は、シーボルトたちを、海峡の海岸に新しく建てた別宅に案内しています。そこで、シーボルトは、伊藤の求めに応じて、彼の5歳の息子に「小シーボルト」という名前をつけています。そして、マデラ産の葡萄酒で、友情の盟約をかためる乾杯をしたのです。夜が迫って来たので、ビュルガーが海岸で集めた数種類の海産物を持って、下関に帰りました。
 その後、伊藤杢之丞宅に滞在し、医業をおこなっていた山口行斎を訪れています。山口の所には、数人の患者や知人が、シーポルトに会うために来ていました。石やその他の天然物を携えて来て、シーボルトに贈り物として差し出したのです。なお、シーボルトは、オランダ領東インド総督から資金を提供されていたので、貴重な天産物を買うこともありました。この夜には、ビュルガーが評価した貴重な鉱石のコレクションを購入しています。

13.2月26日(日)-下関での滞在(4日目)

 長門や周防などから門人が、天産物を持参してシーボルトに会いに来ました。シーボルトは、参府旅行の時に、彼らから論文を受け取り、「ヨーロッパの学問に進歩を示し、それに努力を傾注した旨の証明書」(『日記』、30頁)を与えることを約束していました。そこで、門人たちは、論文を持参したのです。三田尻の医者の杉山宗出の論文「日本の塩業について」をはじめとして、優れた論文が提出されました。シーボルトは、「私に心服している人々の熱狂する様を目の当たりにして」(『日記』、30頁)感激しています。シーボルトは、教師として高い資質を持っていたのです。なお、弟子たちの論文は、オランダ語で書かれていたはずですので、シーボルトは、彼らの論文を通して、日本に関する貴重な情報を得たのです。
 門人たちは、皆、自分の患者を連れてきていました。患者数が多すぎたので、シーボルトの助言に従って、門人たちは、くじ引きで診てもらう患者を決めたのです。そこで、シーボルトは、限られた数の患者を診断し、手術を施したのです。

14.2月27日(月」-下関での滞在(5日目)

 シーボルトは、竹崎に行く許可を取り、ビュルガーとともに今浦に行きました。下検使と家来の武士数人が同行しました。下検使たちは、竹崎と小門の村が、下関とは違った地区にあるので、先へ行くのをためらいました。そこで、彼らにブドー酒や酒を飲ませて懐柔したので、小門へ行く道を進みました。そして、藪をかきわけて山に登り、眺望の開けた場所で西南方向の観測を行いました。その結果、入手していた地図の間違いを発見できたのです。海峡の地理は、軍事上の機密事項ですので、シーボルトの観測は、スパイと疑われる行為といえるでしょう。シーボルトは、夜には、下関の宿で、多数の患者の診断と治療を行いました。

15.2月28日(火)-下関での滞在(6日目)

 翌日の正午に乗船するようにとの通報を受け取りました。そこで、出航の準備に取り掛かりました。これまでに集めた天然物を、出島に輸送する手配をしたのです。夜には、長府の藩医が来訪しています。

16.3月1日(水)―下関港からの出立

 港には、たくさんの門人や知人が見送りに来ていました。そこで、シーボルトは、彼らのために手短のスピーチし、薬品を贈っています。2月26日に論文を提出した門人たちには、「ねぎらいと励ましのため、特別な賞品として<医療>器具やコップを渡した」(『日記』32頁)のです。
 出帆の時間が急に決まったので、門人たち各々に、再び提出する論文のテーマを示すことができませんでした。そこで、「七から十までのテーマを大阪から送る約束をし、下関にいる医師の行斎が、能力に応じてそれを彼らに割り当てることにした」のです(『日記』32頁)。また、山口行斎に対しては、下関や小倉と、その間にある島々の詳しい記述と、「<地図製作のために>日本人の流儀による測量を頼んだ」(『日記』32頁)のです。
 港には、佐甲家の主人と家族が見送りに来ていました。シーボルトは、宿に滞在している間の彼らの歓待に感謝して、いくつかの贈り物を渡しています。友人の伊藤杢之允盛永も見送りに来てくれたので、彼にも「別れの挨拶を述べ、若干のヨーロッパの用具を贈」(『日記』33頁)ったのです。シーボルトは、正午に太陽の高度を測ってから、船に乗り込んでいます。

次回は、下関から大阪への旅路を辿ることにいたします。

筆者(横山 実)のプロフィール

1943年川崎市に生まれる。1978年から浮世絵の収集を始める。
1980年に川崎浮世絵協会の設立に参加する。
その時に、世界的に有名な浮世絵収集家である斎藤文夫さんと知り合う。
現在は、國學院大學名誉教授(元法学部教授)、国際浮世絵学会理事

引用

シーボルト参府旅行中の日記
シーボルト 著 / 著齋藤信 訳
刊行年月:1983年01月  思文閣出版

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