
あの日から15年…。長かったようでもあり、体感的には「あっ」という間という思いも強い。2011年3月11日午後2時46分。世界的にも最大震度の部類に入るマグニチュード(M)9・0の巨大地震が発生した。
気仙沼を含む三陸地方にとって、震度3程度の地震は日常茶飯事だし、個人的には書棚から本が全部落ちるような、5を超える地震も4回経験している。しかし。あの時の地震は規模が桁違いに大きく、逼迫した生命の危険を感じた。そして、これが今でもトラウマだが、なんと3度、揺れのピークがあった。「どんなに大きな地震でもピークを過ぎれば、収まる」という経験が崩れ去った。今でも心臓がバクバクするほど恐ろしかった。15年経った今でも、地震を感じた瞬間「頼むから、これ以上大きく揺れるな」に加え「1度で収まってくれ!」と切実に願う。あの地震の恐怖は今でも忘れられない。
しかし。それより恐ろしい事態が、3度目の揺れが終わってから約40~50分後に東北から関東までの党併用沿岸を襲った。今から130年前の明治29年(1896年)に2万2000人の命を奪った明治三陸大津波に迫る1万8000人以上の犠牲者(行方不明を含む)を出した大津波の襲来であった。
気仙沼市には最大で14mを超える津波が押し寄せ、1219人が死亡、行方不明者も依然として214人いる。地震および津波による被災世帯は市全体の実に35・7%に達する9500世帯、津波浸水面積は、市の中心街をほぼ網羅する都市計画区域で20%を超える9・6平方km、被災した事業所は3314と8割を超え、25236人もの従業員が被災するなり、失職、休職などの手ひどい影響を受けた。
数字の羅列にはなったが、改めてその大きさに驚く。
「気仙沼は終わった」と思った火に包まれた気仙沼湾の映像を今でも鮮明に覚えている。「復活なんてできるのか」。そう膝を屈したあの日。震災から半年後。被災地は被災した建物は残り、がれきで埋まっていた。1年後、がれきは撤去され始め、建物の解体も始まった。仮設住宅も急ぎ整備された。それでも3年後、中心市街地は空き地と水たまりがあった。5年後、ようやく災害公営住宅の建設が続々と始まった。そして震災から10年たち、中心市街地のシンボルである、飲食および物販店とコミュニティー・スペースの複合施設「ナイワン」がオープン。大島大橋、三陸道気仙沼湾横断橋が相次いで開通、復興が仕上げ期に入った。そして15年。今年7月には、最後の復興整備と言える亀山モノレールが大島に完成する予定だ。
L1(数十年から百数十年に一度発生する比較的頻繁と想定する)津波から生命を守る防潮堤の建設、海岸部から山側や高台を結ぶ市道や県道も拡幅整備されたほか、ハザードマップの見直しなども進展。今は行楽客を1人でも多く迎える観光戦略に知恵を絞る。
震災から15年。15歳以下は震災後に生を受けた子どもたちであり、その数は時間が進めば進むほど多くなる。しかも、全国的には巨大地震、津波を経験していない人も多いし、その数は未来に向け増えていき、風化が進むのは残念ながら必定なのだ。
だから改めて強く望む。「震災被害、その教訓を後世に伝えていく」ことは、必ず全国どこかで起きる巨大地震、そして大津波へ備えるためにも。
気仙沼市には、大津波で被災した旧・気仙沼向洋高の校舎を保存した震災遺構伝承館がある。気仙沼市の景勝地「岩井崎」に近く、校舎4階まで浸水し、破壊された校舎、3階には津波で運ばれた車が仰向けのまま残る。全てが震災当時のまま保存されている。当然窓ガラスは全て割れ、吹きっ晒しの状態は、津波の直撃を受けた後を「そのまま」時を止めて佇んでいる。
まるで爆撃を受けた跡地に立つような寒々しくも、全身から生気が抜けるような景色。虚脱感がじわじわと、訪れた人の心に染み込んでいく。
実は、この旧・気仙沼向洋高の校舎保存を聞いた時「あえて保存する意味があるのだろうか。被害者もいないし、津波が直撃したとはいえ、保存し、公開しても、伝承する価値はあるのだろうか?」。正直そう思った。
しかし百聞は一見にしかずー。保存するための現地調査に同行取材し、初めて校舎内に入るやいなや、まざまざと自分があの日に感じた「総毛立つ」感覚、そしてあの虚無感が鮮明に現前に迫ってきたのだ。「津波が奪った生気、生活がここに吹き溜まっている」。
2度と使われなくなった黒板、机、椅子。泥まみれのトイレ、水産会社の倉庫が激突した壁面の窪み、剥き出しになった天井からぶら下がる、さびを帯びた蛍光灯器具…。
あの日、あの時をまるで「真空パック」にして保存しているー。実際にはきちんと樹脂でコーティング保存されている。
震災の時に気仙沼湾を襲った津波を記録した映像を含め、震災の様子を伝えるシアターなども併設しており、ぜひ一度は足を運んでいただきたい。
