1.4月10日(月)―川崎からの出発
シーボルトが宿泊した川崎宿は、慶長6(1608)年に宿駅伝馬制が制定された時は、正式な宿場ではありませんでした。品川宿と神奈川宿との間が、往復十里と長かったために、元和9(1623)年になって、宿場に認定されたのです。川崎宿は、砂子・久根崎・新宿・小土呂の4町から構成されていて、本陣は、田中本陣・佐藤(惣左衛門)本陣・惣兵衛本陣の三つがありました(私が子ども時代に住んでいた家は、東海道が通っていた砂子の小土呂橋の近くでした)。シーボルト一行は、そのいずれかの本陣で宿泊したと思われます。幕末での旅籠の数は72軒で、そのうち、飯盛女という名目の女郎を置いていた「飯盛旅籠屋」は、新宿に集中して33軒、女郎を置いていない「平旅籠屋」が39軒でした。
川崎宿では、明和年間(1764年‐1772年)に旅籠屋として営業を始めた万年屋が、川崎大師への分岐点という地の利があって、幕末には繁昌しました。そこでの名物の「奈良茶飯(ならちゃめし)」は、『東海道中膝栗毛』の中で弥次さん喜多さんが食べたのです。
シーボルトは、「礼服を着て六時に将軍の居在地に向けて出発」(シーボルト著・齋藤信訳『シーボルト参府旅行中の日記』(思文閣出版、1983年)100頁。以下、この本は、『日記』と略記します)しています。そして、直ぐに、六郷川(多摩川は、川崎宿の近くでは、「六郷川」と呼ばれていました)を渡ったのです。
浮世絵では、六郷川の渡舟の様子が描かれていますが、六郷の渡しは、江戸時代の初めからではありませんでした。関ヶ原の戦いがおこった慶長5(1600)年には、徳川家康の命令によって、六郷川に六郷大橋を架けられました。それ以来、橋が損壊する度に、修復や架け替えが行われてきました。しかし、貞亨5(1688)年の洪水で六郷橋が流失した後、橋の架け替えを断念しました。それ以後、明治7(1874)年に、六郷川に佐内橋が建設されるまで、180数年にわたって人々は舟で川を渡っていたのです。
図17-1では、広重の落款の下に、保永堂と仙鶴堂の二つの印が見られます。船頭が掉さす渡舟は、6人の客が乗っていて、一人は煙管で煙草を吸っています。舟の先には、上流から下って来た筏が見られます(筏は、雪解けの春先に多く見られました)。対岸が川崎宿ですが、そこには番所がありました。番所の前を通った人々が、到着する舟に乗るのを待っています。馬も舟に乗って川を渡りましたが、江戸川の矢切の渡しの場合には、馬が動いたり暴れたりした時は危険という理由で、荷物を積んだままの馬は、舟に乗れませんでした。西の空が茜色ですので、西日を描いたのかもしれません。右の奥には、富士山が描かれていますが、明治時代に制作された粗末な後摺りでは、富士山が描かれていません。
図17-1では、筏の下の紙の破れが補修されています。明治時代の末までには、良質の浮世絵版画は、ほとんど海外に流失してしまいました。ですから、傷んだ浮世絵版画の補修が行われるようになりました。補修の名人が、高見澤遠治(1890年‐1927年)です。彼は、江戸時代の紙や絵具を用いて、完璧な補修をしました。それに比べると、図17-1での補修は粗末です。しかし、他の箇所は、きちんとしていますので、私は、母校の川崎市立川崎小学校に、創立150周年記念の時に寄贈しました。校長室の前の廊下に飾られているので、川崎小学校の学童たちは、江戸時代の子どもと同じく、いつでも見ることができるのです。
この東海道53次のシリーズは、保永堂版のシリーズ発刊から約10年後に、江崎屋から間判で発刊されています。宿場名の部分が行書体で書かれているので、通称「行書版 東海道」と呼ばれています。広重は、同じく六郷の渡舟を画いていますが、保永堂版とは趣が違っています。図17-2では、川崎に向かう舟の右には、川崎宿から出発した舟が描かれています。上流には、帆掛け船が見られます。富士山は、木々の間に小さく描かれています。
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シーボルトは、六郷川を渡ってからは、北東に向かって両側に田圃のある平坦な土地を通りましたが、「そこで数羽の黒いツルを見た」(『日記』、101頁)のです。しかし、激しい雨でしたので、駕籠に入ったままで、東の水平線に静かに波立つ湾を眺めることはできなかったのです。街道では、細長いタケの籠に魚を入れた荷を積んだ馬が、江戸に商売に行くのを目撃しています。「大森の村・・には、薩摩と中津の御隠居が江戸から来て待っておられた」(『日記』、101頁)のです。
当時、阿蘭陀文化に心酔した大名は、蘭癖大名と呼ばれていましたが、薩摩の御隠居の島津重豪(1745年―1833年)と、中津の御隠居の奥平昌高(1781年―1855年)は、蘭癖大名でした。
島津重豪(しまづ しげひで)は、薩摩藩の第8代藩主で、彼の娘は第11代将軍の徳川家斉に嫁いでいました。ですから、将軍の岳父として、権勢をふるっていたのです。彼は、蘭学に関心を持ち、阿蘭陀文化の心酔者だったのです。
奥平昌高は、豊前国中津藩の第5代藩主でした。島津重豪の次男として薩摩藩の江戸藩邸で生まれています。天明6(1786)年9月20日に、中津藩主奥平昌男が急逝したので、奥平昌高は、末期養子として6歳で家督を継いでいます。生家も養家も蘭癖大名だったので、昌高は、阿蘭陀文化に心酔しました。阿蘭陀製品を買い集め、中津藩の江戸中屋敷に設けた「オランダ部屋」に、それを陳列していたのです。彼は、それに飽き足らず、オランダ語を学び、歴代のオランダ商館長と親交を結すんだのです。ヘンドリック・ドゥーフ商館長からは、フレデリック・ヘンドリックというオランダ名までもらっていたのです。昌高は、文政8(1825)年5月6日に、次男の昌暢に家督を譲って隠居しています。ですから、翌年に会ったシーボルトは、日記において、44歳の彼を「中津の御隠居」と記していたのです。
島津重豪と奥平昌高という「オランダ人を庇護して下さるこの高貴の方々は、普通ならば使節団が休息することになっている宿屋におられた。控えの間で少し休んでから、われわれはこの偉い方々に敬意を表する光栄に浴した。・・われわれが日本流にお辞儀を済ませてしまうと、その間に部屋に運ばれてきた椅子に掛けるようにすすめられた(『日記』、101頁)のです。
会見の主役である「八十四歳の高齢である薩摩の御隠居は、とくに話好きで、眼や耳も御丈夫で、まだ立派な体格をしておられたので、せいぜい六十五歳ぐらいに見えた」(『日記』、101頁―102頁)のです。薩摩の御隠居は、使節との話を終えると、シーボルトに話しかけました。その会話が終わると、シーボルトは、中津の御隠居と「ひとりの通詞を介して広い範囲にわたる会話」(『日記』、102頁)をしたのです。たとえば、軍医として着用していた剣帯について聞かれた時は、「これは私の剣帯で、皇帝陛下の軍職にある間はいつも剣を下げねばならないことになっておりますので、ここまで付けて来たのです」(『日記』、103頁)と答えていました。砂糖菓子や焼菓子が出て、その後も、会話が弾みました。江戸滞在中にお忍びで訪ねたいとの約束をいただいて、シーボルトは、大森での会見を終えたのです。
シーボルトたちは、海岸に沿って乗物で進みましたが、「浅い海には貝をとるためにトゲのある短い木が立ててあった」(『日記』、103頁)のを見ています。大森から南品川への海岸では、海苔の養殖が盛んでした。ですから、シーボルトは、「貝をとるためのトゲのある短い木」ではなく、ノリ網を張る竹の支柱を見たのだと思われます。
この絵は、小林清親が画いた光線画の一つで、明治13(1880)年に発刊されています。明治5(1872)年)に創業した海苔問屋「吉田商店」で働く2人の女が描かれています。一人は舟を漕ぎ、もう一人は海苔採りをしています。遠景には、無数の船のシルエットが描かれていますが、蒸気船や品川台場も確認できます。
浅草海苔の名が生まれたのは、慶長年間(1596年 ~1614年)だといわれています。その後、品川海苔の名称が有名になりましたが、品川の漁業者が海苔の養殖方法を発明し、それが各地に伝わったからです。しかし、今では、品川から大森にかけての海岸は、埋立てられており、海苔の養殖はなくなっています。
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シーボルトは、10時には品川に着いています。
品川湊は、中世から栄えていましたが、慶長6(1601)年に宿駅伝馬制が制定された時、東海道の宿場となりました。日本橋を起点として、5街道が整備されましたが、品川は東海道の二番目の宿場となり、西国へ通じる陸海両路の江戸の玄関口となりました。多くの大名が参勤交代で通過したので、江戸への入り口の他の三つの宿場(甲州街道…内藤新宿、中山道…板橋宿、日光街道・奥州街道…千住宿)と比べて、大いに賑わったのです。
品川の宿場は、目黒川をはさんで、北品川宿と南品川宿に分かれていました。品川宿には、旅人の他に、江戸に住む男たちが、性欲を満たすために訪れていました(江戸は、男の単身居住者が多かったのです)。ですから、品川は、岡場所(私娼屋が集まった遊郭)として栄えたのです。幕府は、岡場所としての品川を黙認して、1772年に、飯盛女という名目の女郎の数を500人と定めています。しかし、この数を遙に越える女郎が働いていました。1843年ころの記録では、飯盛旅籠屋(実質は、売春の宿)92軒、水茶屋64軒を数え、「北国の吉原、南楼の品川」と称されるように、吉原と肩を並べて繁栄したのです。
この絵は、鳥居清長(1752年―1815年)が画いたものです。彼は、大判の二枚続きや三枚続きの絵を画いていますが、図17-4は、彼の代表シリーズ「美南見十二候」の「六月 品川の夏」(大判二枚続きの左の絵)です。若衆の隣の女は、八頭身美人です。ですから、西洋人は、「東洋のビーナス」を画いたとして、清長の美人画を高く評価したのです(清長は、六大絵師の一人とみなされたのです)。廊下の外には、海苔の養殖のための竹の支柱が見られます。ですから、この飯盛旅籠屋は、南品川宿にあったことがわかります。
この絵は、鳥文斎栄之(1756年―1820年)が画いたものです。栄之は、500石取りの直参旗本の家に生まれて、17歳で家督を継いでいます。狩野派の絵を学びましたが、浮世絵に関心を持つようになりました。そこで、34歳の時に引退して、浮世絵師として仕事を始めたのです。最初は、清長の絵の影響を受けましたが、大判3枚続きの左の絵である図17-5は、その時代に描いたものです。品川の飯盛旅籠屋の2階の部屋にいる女は、品よく描かれています。火鉢の近くには、花簪を付けた少女が座っています。この少女は、飯盛旅籠屋で姉女郎に世話してもらっているので、吉原の禿に相当します。しかし、岡場所の品川に勤めているので、姉女郎の名前も少女の名前も、浮世絵では書かれていません。廊下の外には、目黒川河口の砂州で、人々が潮干狩りをしています。ですから、この飯盛旅籠屋は、南品川宿にあったことがわかります。
この絵は、鳥居清長が画いた大判三枚続きです。近くに木々が見えますので、八ッ山の麓の北品川の飯盛旅籠屋における宴を描いたと思われます。宴を主催している裕福な客は、蚊帳の中で姉女郎と共に、幇間たちの芸を見ています。面をかぶった幇間は傘を持ち、ドラや鈴の音に合わせて踊っています。その芸を見ている芸者の傍らには、三味線箱が置かれています。給仕の女は、料理を運んでいます。吉原と同様に、品川でも格の高い姉女郎と付き合うためには、客は散財しなければならなかったのです。
この絵は、後摺りです。保永堂と仙鶴堂の間の合同出版の契約が破棄された後に発刊されましたので、「仙鶴堂」の印が消えています。初摺りでは、大名行列は、棒鼻の左の人で終わっていますが、後摺りでは、その後に続く4名が描かれています。
民謡「お江戸日本橋」の歌詞のように、日本橋を七ツ立ち(「明け六ツ」より1時間早く、夜明け前に出立)した大名行列は、品川宿には、日の出の時刻に到着したのです。ですから、図17-7では、朝焼けが描かれています。棒鼻の先には、旅人たちが土下座して、大名行列が通り過ぎるのを待っています。向かいのよしず張りの茶屋では、女たちが、土下座せずに大名行列が過ぎ去るのを見ています。茶屋の先の二階建ての家は、北品川宿の飯盛旅籠屋です。
東海道五十三駅道中記細見双六(以下においては、「双六」と略記します)の品川では、八ツ山方面からの北品川宿が、鳥観図で描かれています。江戸湾には、たくさんの大型帆船が停泊していたのです。
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シーボルトは、10時に品川に到着し、すこし休息しています。その茶屋には、「オランダ人と交際している数人のひとが、江戸から出迎えのためにここまでやって来ていた。有名な将軍家の侍医・・宇田川榕菴その他の友人も来て」(『日記』、103頁)いたのです。
江戸湾には、たくさんの船が錨を下ろしていました。しかし、雨は降りやまず、空には雲が厚くたちこめていたので、江戸湾の眺めを楽しめなかったのです。
この絵は、清長の代表的大判シリーズ「美南見十二候」に先立って出版されたものです。この中版のシリーズでは、美南見(吉原の「北国」に対して、品川は「南」と呼ばれたのです。「南」を表現する「美南見」や「美南見」は、言葉遊びです)の12か月の季節の風景を描いたものです。図17-9では、御殿山に花見に来た母と娘が描かれています。母は、煙管で煙草を吸い、付き添い女は煙草盆を持っています。娘は、草摘みを楽しんでいます。右下には、林忠正の印が押されています。それゆえに、この絵は、明治時代にパリに持っていかれて、林忠正の店で売られたことがわかるのです。
目黒から品川にかけての高台には、城南五山と呼ばれる五つの頂があります。その一番南に位置するのが、八ッ山ですが、その北隣が御殿山です。江戸時代には、御殿山は、桜見の名所5か所のうちの一つでした。上野寛永寺の桜は江戸初期から名高く、庶民にも親しまれていました。その他の王子の飛鳥山、向島の隅田川堤、玉川上水沿いの小金井、品川の御殿山は、八代将軍吉宗の奨励よって桜見の場所として整備されたのです。
御殿山は、江戸時代に入ると、歴代将軍の鷹狩りの休憩所として利用されていました。その後、吉宗の奨励によって桜が植えられて、ここは庶民の桜見の名所となったのです。しかし、嘉永6(1853)年にペリー総督が、浦賀に来航して開国を求めた後に、御殿山は激変しました。幕府は、海防の強化策として江戸湾の入り口に11基の大砲を据えた台場を造ることを決定し、埋め立てるために、海に近かった御殿山を削り、切り崩してしまったのです。明治5(1872)年には、そのようにして作られた切通しに、鉄道が通ったのです。
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シーボルトは、高輪の大木戸を通り、江戸府中に入っています。木戸は、国境や町の出入り口に設けられた関門です。人や物の出入りを管理するための簡易な関所ですが、木戸の中で規模が大きいのが、大木戸と呼ばれました。木戸は、明け六ツ(6時)に開き、暮れ六ツ(6時)に閉じたのです。
江戸府中への出入り口としては、中山道の板橋宿の坂上に大木戸が設けられ、甲州街道筋には、元和2(1616)年に四谷大木戸が設けられています。東海道筋には、元和2(1616)年に芝口門に大木戸が設けられましたが、それは、宝永7(1710)年に高輪に移転しています。シーボルトは、高輪大木戸を通って、江戸府内に入ったのです。
この絵は、歌川貞秀が画いたもので、文久二(1862)年に発刊されています。幕府が弱体化し、この年以降、大名行列はなくなりますので、この絵は、最後の大名行列ということになります。大名行列の規模は、石高に応じていました。ですから、100万石の前田家の行列は、2,000人に達していたのです。図17-10で描かれている大名行列は、石高の大きい大名の行列で、高輪大木戸から品川宿へと延々と続いています。
図17-10の左には、二つの土塀が描かれていますが、その手前に大木戸がありました。土塀の右には、高札場がありました。その上には、赤穂47士の墓地がある泉岳寺への門前町が描かれています。西からの旅人の多くは、泉岳寺に詣でて、高輪大木戸を通ったのです。
その先には、太子堂、焔魔堂および東禅寺が描かれています。東禅寺には、安政6(1859)年にイギリス公使館が置かれました。当時の東禅寺は、尊王攘夷の浪人の襲撃の標的となりました。文久元(1861)年5月28日には、水戸藩の浪士が、公使オルコックの東海道旅行を神州の地を汚したとして憤激して、襲撃事件を起こしています。また、翌年5月29日には、東禅寺の警備にあたった松本藩士が、自分たちの藩の出費増を憂えて襲撃しています。図17-10は、このような物騒な時代の風景なのです。
この絵は、三代広重(1842年―1894年)が、鉄道が開通する1年前に描き、明治4(1871)年4月に発刊されています。人々は、新設される鉄道に関心を持っていたので、版元は、三代広重に、想像上の蒸気機関車を描かせたのです。しかし、この絵では、文明開化で急速に変化する高輪の風景が、集約して描かれています。
左側には、土塀の手前の高輪大木戸の木戸が見られます。その前には、馬車が走っています。開港直後から、居留地では外国人が個人所有の馬車を持ち込みましたが、幕末まで乗合馬車は交通手段として普及しませんでした。慶応3(1867)年 に道路が拡張、整備されたので、乗合馬車が登場することになりました。明治2(1869)年2月には、ランガン商会が、横浜の馬車道から吉田橋を経由して、東京の築地居留地を結ぶ 乗合馬車路線を開設しています。また、同年5月には、「成駒屋(なりこまや)」が乗合馬車会社を設立して、営業を始めています。ですから、図17-11が画かれた当時には、1日に100人程度の人々が、東京と横浜の間を乗合馬車で往復していたのです。
馬車の先には、人力車が見られます。人力車は、明治2(1869)年に、東京の八百屋鈴木徳次郎、車職高山幸助、福岡藩士和泉要助たちが作りました。そこて、翌年には、東京日本橋で営業を始めています。ですから、図17-11は、最新の乗り物である人力車を紹介したことになります。
蒸気機関車の近くには、茶色の土の山が見えますが、それは、鉄道敷設の堤を築くための土です。これらの土は、御殿山やお台場の一部を取り壊して、持ってきたのです。田町-品川間2.7kmの海上の幅6.4mの堤の遺跡は、平成31(2019)年4月に、品川駅改良工事の際に発見されています。堤の遺跡は、当時の日本人の築堤の技術の高さを示すものとして、一部が保存されることになりました。なお、蒸気機関車、車両、レールなどは、イギリスから輸入しました。また、イギリスからお雇い技師として、蒸気機関車の運転手を招いています。このようにして、井上勝のイニチアチブで、鉄道敷設が完了し、明治5(1872)年9月12日に、新橋~横浜間の鉄道が開通し、新橋・横浜両停車場で、明治天皇の臨席のもとで開業式が行われたのです。
図17-11の海上には、日本で初めて建造された蒸気船の弘明丸が描かれています。江戸の永代橋と横浜を結んだ蒸気船による旅客輸送は、慶応4・明治元(1868)年に稲川丸の就航で始まっています。1時間半で、東京から横浜に行けるので、蒸気船による定期航路は繁昌しました。当時の記録に残るだけでも、7隻の蒸気船が就航していますが、その一隻が弘明丸でした。弘明丸は、明治3(1870)年に横須賀で建造されたもので、250トンで40馬力の木製外輪船でした。 横浜の商人の鈴木保兵衛たちは、同年7月より、弘明丸を使って横浜と東京間の運航を開始したのです。
鉄道には太刀打ちできず、蒸気船による定期航路は、直ぐに廃止されています。そこで、弘明丸は、北海道の会社に売られています。東京と横浜の間で運行した蒸気船も乗合馬車も、鉄道が開設されると、客を奪われて、運行停止に追い込まれたのです。この事実は、明治時代になって、資本主義下での厳しい競争が始まったことを物語っています。
図17-11の蒸気機関車の上には、台場と共に燈台が描かれています。この燈台は、フランス人技師のフロランによって、第ニ台場の西端に建てられました。この西洋式の燈台は、観音崎(神奈川県)、野島崎(千葉県)に次いで建設され、明治3(1870)年に点灯されています。図17-11は、明治初めのお急速な文明化を示す、貴重な開化絵(文明開化時代の新しい風俗を描いた絵)なのです。
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高輪の大木戸を通り過ぎると、「道幅は次第に広くなり、だいたい規則正しく交叉し、いつでも約百七、八十歩の間隔で木戸と矢来で仕切られ番所があった」(『日記』、103頁)のです。また、火事に備えて「どの家の前にも水桶があるのが見え、時にはたいへん立派に鋳物で作った水槽もあった」(『日記』、103頁)のです。当時の日本のすべての家は、防犯に気配りする今とは違って「一階がすっかり開け放してあるから、ちょうど家のものが昼食の準備に立ち働いているのまで見え」(『日記』、104頁)たのです。このように、シーボルトは、江戸の町の賑わいを楽しく観察した後に、日本橋を渡って、1時20分には日本橋本石三丁目の長崎屋源右衛門が経営する阿蘭陀宿に到着しています。*****
シーボルトが無事に江戸に到着しましたので、次に、日本橋の浮世絵を見ていただきます。
この絵では、東海道五十三駅道中記細見双六の「振出」として、日本橋の欄干が描かれています。右手には、大手門の先にある江戸城が描かれています。江戸城には、高さ60mほどの立派な天守閣がありましたが、明暦3(1657)年の大火で焼失しました。その後で、保科正之の提言によって、火災後の復興に金を使うために、天守閣の再建は断念されたのです。ですから、広重などの浮世絵の絵師は、江戸城の天守閣を画いていますが、それは想像上の天守閣なのです。西の方角には、富士山が描かれていますが、富士山と筑波山は、江戸の至る所で見ることができたのです。
この肉筆画を描いたのは、佐脇嵩之(1707年―1772年)です。彼は、風俗画の名手の英一蝶の晩年の弟子です。図17-13は、日本橋、永代橋、昌平橋の三幅対の掛け軸のうち、右の掛け軸の下部の絵です。日本橋の右下には、魚市場の店が立ち並んでいます。橋の袂の番所の前の広場では、男が大八車で荷物を運んでいます。橋の上では、荷物を運ぶ牛車が見られます。対岸の東側には、倉庫が立ち並んでいます。日本橋川の河口から、荷足船が倉庫に荷物を運んでくるのです。江戸は、大消費地で、日本全国から物資が運ばれて、たくさんの倉庫で、それらが備蓄されていたのです。図17-13は、18世紀半ばの日本橋の実景を描いたもので貴重です。
広重が画いた東都名所シリーズは、川口屋正蔵版(1832年)と喜鶴堂版(1832年)がありますが、図17-14は、喜鶴堂版のものです。
日本橋の上では、突然の雨に見舞われて、急ぎ足で駆けてゆく人々が描かれています。白壁の倉庫群、江戸の街並みの上には、雨で煙る富士山が描かれています。西側の橋の袂には、火事後の再建のために備蓄している木材が、描かれています。東側の橋の入り口には、高札が立っています。江戸時代は、論語の「民は之に由らしむべし 之を知らしむべからず」に従って、最小限の掟を新たに発布する度に、橋のたもとなどの高札で公示していたのです。傘には、「佐野喜」という字が書かれていますが、これは、喜鶴堂を経営する佐野屋喜兵衛の略称です。この絵は、広重が画いた雨景色の名作の一つです。
この絵は、広重が画いた「東海道五拾三次之内」シリーズの後摺りです。初摺りは、天保4(1833)年頃に、保永堂と仙鶴堂の合版として発刊されています。副題は、「朝之景」ですので、明け六ツ(6時)に開いたばかりの木戸を、西に向かう大名行列が橋を渡って通ろうとしています。その前には、魚市場で新鮮な魚を仕入れた売人などが描かれています。
後摺りは、保永堂の単独発刊となっています。副題は、「行列振出」となっていますが、「振出」とは「双六の出発点」を指します。大名行列が、双六の東海道の宿を旅することを想定したのでしょう。保永堂は、魚の売人など5人では寂しいと思って、後摺りでは、大名行列の前に様々な庶民の姿を、広重に画かせたのでしょう。シーボルトは、この絵が描かれる10年ほど前に、江戸でこれらの庶民を見たのです。
保永堂(竹内孫八)は、東海道五拾三次之内シリーズが成功したので、木曽海道六十九次シリーズを企画し、当時の一流絵師の渓斎英泉に下絵を画くことを依頼しました。そのシリーズは、天保6(1835)年から天保8年の間に発刊されています。しかし、発刊を始めた直後にトラブルが生じて、英泉は、版下絵を画くのを断りました。そこで、困った版元は、東海道五拾三次之内シリーズで人気が出た広重に、残りの絵を画いてもらったのです。
このようなトラブルを抱えて、保永堂は、シリーズの発刊を続けることができなくなりました。そこで、途中からは錦樹堂(伊勢屋利兵衛)が携わるようになり、しばらくは、錦樹堂との合版で発刊されました。その後、保永堂が手を引いたので、錦樹堂が単独出版しています。完結後には、錦樹堂は、このシリーズの版権を錦橋堂(山田屋庄次郎)に買い取ってもらっています。
このような経緯がありましたので、後摺りの図17-16では、英泉の落款は削られています。「竹内」「保永堂版」という印は、残されましたが、傘には「中橋」「山庄版」と書かれています。錦橋堂の山田屋庄次郎は、中橋広小路伝兵衛店で営業していたので、「中橋」という文字が書かれていたのです。なお、初摺りでは、傘に「未」と書かれていますが、それは、発刊された年が、未年の天保6(1835)年だったからです。
図17-16は、雪が降りやんだ直後で、日本橋川の下流には朝焼けが見られます。右には、荷物を運ぶ大八車が、東海道へと西に向かっています。大八車の下の三度笠の旅人は、中山道の旅に出る英泉本人ではないかといわれています。日本橋川の東側の沿岸には、魚市場がありました。ですから、そこで仕入れた鰹をもった売人が、威勢よく売りに出かけようとしています。この絵では、日本橋の朝の賑わいが描かれているのです。
この絵を画いたのは、歌川芳虎です。横浜絵や開化絵で人気を取得し、明治元(1868)年の錦絵師番付では、貞秀に次いで第2位となっています。図17-17は、明治3(1870)年に発刊されたもので、開化絵の一つです。中央には、人力で動く4輪車や2輪自転車が描かれていますが、それらは当時の最先端の乗物でした。これらは、日本橋近辺を走っていたわけではありませんが、外国から輸入された珍しい乗物として描かれたのです。なお、これらの乗物の延長線上に、1880年代の初めに、ドイツのダイムラーとベンツの二人が、ほぼ同じ時期に、ガソリンエンジンを完成させ、まもなく、それを搭載した自動車の生産が始まったのです。今では、日本橋の道路も、日本橋川の上を走る高速道路も、たくさんの自動車が走っているのです。
日本橋の西側の袂には、大きな高札場が設けられました。明治になって、太政官布告が発せられましたが、外国に倣って、それを公布する必要に迫られました。そこで、このような大きな高札場が設けられたのです。これも、明治維新後に激変した風景の一つでしょう。
あとがき
今回で、17回に及ぶ「シーボルトの江戸への旅路」を、終わりにいたします。連載を読んでいただいた方々に、お礼申し上げます。
私たちは、学校でシーボルトという名前を教えてもらっています。しかし、彼が江戸への参府旅行に参加したのは、30歳であったことを知っている人は少ないでしょう。30歳という若さがあったからこそ、シーボルトは、できるだけ駕籠には乗らず、歩いて日本人の生活をつぶさに観察したのです。また、ビュルガー、友人や弟子たちの協力によって、旅行中にたくさんの珍しい天然物を採取することができました。それらは、オランダに運ばれて、オランダ国立民俗博物館、国立自然史博物館(ナチュラリス)、国立植物学博物館などにおいて、今でも貴重な研究対象となっているのです。
シーボルトが参府旅行した文政期(1818年―1831年)とは、どのような時代だったのでしょうか。私が学校で教えられた時は、この時期は文化が爛熟して退廃が見られるということでした。浮世絵の美人画についていえば、英山までの絵師は、人々が憧れる美人を画いていました。それに対して、文政期に人気を得た英泉は、町娘のおしゃれな姿や、妖艶な女の姿を描いたのです。この時代になると、多くの人は生活に余裕ができて、町娘も笹色紅の化粧をして、美しい着物を楽しむようになっていたのです。このようなことができたのは、文政期は平和だったからです。
シーボルトの参府旅行の日記からは、日本全国に地場産業が発展していたことがわかります。大名は、年貢米だけでは財政が賄えなくなり、地場産業を奨励したのです。ですから、各地で地産品ができ、シーボルトは、その一端を紹介しています。当時は、街道の宿に金が落ち、日本全国の人々が元気だったのです。
文政期が終わってから22年後に、アメリカの東インド艦隊司令長官兼米使提督のマシュー・ペリーが軍艦4隻を率いて来航し、幕府に開国を要求しています。それ以降、開国派と尊王攘夷派との間で激しい抗争が起こり、国内が混乱します。シーボルトが参府した文政期は、庶民は貧しくとも平和に生活していた時で、シーボルトは、それを観察して、日記に書き留めていたのです。
2026年は、シーボルトが江戸に参府して200年目です。日本では、1873年に、在日ドイツ外交官、学者、貿易商によって、公益社団法人OAG・ドイツ東洋文化研究協会が設立されています。その活動の一環として、シーボルト・ゼミナールが、毎月一回くらいの頻度で開かれています。2026年には、シーボルト・ゼミナールの主催者である大胡真人たちは「日本におけるシーボルト街道」の振興の構想の具体化、シーボルト学術財団(ドイツ、ヴュルツブルク) 学術顧問の大井剛たちは、学術会議の開催などを行う予定と聞いています。また、鉱物学者の田賀井篤平からの情報によると、2026年には、東京大学博物館が中心となって、Würgzburgのシーボルト博物館、Leidenのシーボルト博物館、自然史博物館、民俗博物館などの研究者を招いて、シーボルト国際会議を開催する予定ということです。シーボルトに関心のある方々は、これらの企画に注目していただければ幸いです。
浮世絵収集家である私は、シーボルト研究に従事する者ではありません。今回は、『シーボルト参府旅行中の日記』にもとづいて、随筆を書きました。その際、シーボルトが訪れた宿場の風景を描いた浮世絵を掲載しました。皆さんは、これらの浮世絵を楽しまれたでしょうか。浮世絵は、世界に誇る美術品といわれていますが、江戸時代の庶民が日常的に見て楽しんでいたものです。ですから、彼らと同じ目線で、浮世絵を気軽に楽しんでいただけたのでしたら、嬉しく思います。
末筆ですが、シーボルト著・齋藤信訳『シーボルト参府旅行中の日記』(思文閣出版、1983年)の引用を許可して下さった思文閣出版にお礼申し上げます。WEBマガジン「きらめき ぷらす」の細田利之編集長は、連載の機会を与えて下さっただけでなく、WEB用に原稿を編集して下さいました。細田編集長に対して、厚くお礼申し上げます。
1943年川崎市に生まれる。1978年から浮世絵の収集を始める。
1980年に川崎浮世絵協会の設立に参加する。
その時に、世界的に有名な浮世絵収集家である斎藤文夫さんと知り合う。
現在は、國學院大學名誉教授(元法学部教授)、国際浮世絵学会理事
シーボルト参府旅行中の日記
シーボルト 著 / 著齋藤信 訳
刊行年月:1983年01月 思文閣出版