1.3月2日(木)―下関港からの出帆
風待ちしていた船は、8時頃に順風を受けて出帆しました。「潮流に助けられてファン・デル・カペレン海峡(シーボルトが名付けた海峡名ですが、現在は「下関海峡」と呼ばれています)を、非常な速力で通過」(シーボルト著・齋藤信訳『シーボルト参府旅行中の日記』(思文閣出版、1983年)33頁。以下、この本は、『日記』と略記します)しました。
午後には、四国の陸地が見えてきました。「順風を受けて帆走しつづけたが、逆風に変わり、夜十時ごろ家室島と屋代島<普通は大島という>の間に錨をおろさねばならなかった」(『日記』33頁)のです。
2.3月3日(金)―風待ちの停留
朝方には、非常に悪い天候となり、夕方には、さらに風が強まりました。そこで、シーボルトたちの船の近くには、たくさんの船が、錨を下ろして停留していたのです。
3.3月4日(土)-御手洗に向けて出帆
シーボルトは、9時過ぎにビュルガーとともに屋代島に上陸し、南東の岬となっている山に登り、すばらしい景色を眺めています。海岸では、マンモスの歯の化石1片を見つけています。
その後、出帆し、「心地よい南南東の風をうけて、東北東の御手洗<大崎下島の豊町>に向け船を進める。―そこの港に五時半ごろ着き、オカムロ瀬戸・・を通りぬけた。・・五時ごろ潮が引きはじめ真暗な夜となったので、船頭は岩礁にぶつかるのを恐れて、・・十時ごろ目的地に錨をおろした」(『日記』、35頁)のです。
屋代島から、北に針路をとれば、安芸の宮島に行けるのですが、シーボルトが乗った船は、厳島神社がある宮島のはるか南を通って、御手洗に向かったのです。
シーボルトの日記には明示されていませんが、船は、大崎下島の御手洗で停泊したと思われます。御手洗は、江戸時代に、風待ちや潮待ちの港町として栄えました。私は、その港町に、2024年6月21日に訪れましたので、その時に撮りました写真を、以下にお示しいたします。
私が参加した阪急交通社のツアーでは、第二日目の6月21日の午後に、バスで「とびしま海道」を走り、大崎下島の御手洗に行きました。絵図の右手上方の波止場の付近でバスは駐車しました。そこに立っていたのが、この絵図です。狭い土地に、大小の商家、茶屋、娼家、船宿、住宅、神社、寺院などが混在していたのです。その小路で撮ったのが、次の写真です。
九州の大名は、参勤交代の時、船で瀬戸内海を渡っていました。御手洗の脇屋は、薩摩藩の船宿でした。脇屋の建物は、文政時代(1818年―1830年)に建築されたもので、切妻造平入で、屋根は本瓦葺きです。
御手洗の庄屋役を勤めた金子家の建物です。この建物は、賓客を接待するために、京都で作られた茶室を、シーボルトが参府旅行する3年前の文政6(1823)年にここに移築したのです。幕末には、坂本龍馬も御手洗を訪れたという記録があります。慶応3(1867)年11月26日には、長州・芸州間の倒幕の密約(御手洗条約)が、この家で締結されたのです。
4.3月5日(日)-日比に到着
船は、早朝に出帆しています。正午には、琴平から約三マイルのところで、太陽の高度を測定しています。船は七島を過ぎ、夕方近く日比付近に停泊するため、針路を西に向けたのです。
5.3月6日(月)―日比での滞在
児島半島南岸の日比は、北前船の寄港地として栄え、商家や娼家が建ち並んでいました。朝には、シーボルトは、ビュルガーとともに上陸しています。そして、シーボルトは幾種類もの植物を探し、ビュルガーは山の地質を調査しています。日比と向日比との間では、製塩業が行われていました。製塩業が盛んだったので、シーボルトは、「彼らは、裕福だと思う。住民たちはわれわれを非常に物珍しげに眺めて驚いていた」(『日記』、37頁)と観察しています。ニ、三時間、ここに留まってから、船は海岸を離れました。立ち去る時に、イカを捕る巧妙な漁法を見ています。
旅を急ぐ商館長の強い要請で、約30艘の引き舟を使って、風や潮流に逆らって、向日比の湾を出たのです。しかし、漕ぎ手の努力にもかかわらず、そのまま航行を強行したら、暗夜に岩礁にぶつかる危険もありました。船頭は、何度も使いを出して、商館長とやりとりして、やっと錨を下ろすことができたのです。
6.3月7日(火)-室への出帆
船は、夜明けとともに錨を上げました。そして、湾を出るのに、昨日の引き舟に曳いてもらいました。8時頃には、南西の順風に恵まれて航行し、直島の前を通り過ぎています。
シーボルトは、船旅の間でも、太陽の高度の測定などを続けましたが、その結果、「日本の古い地図では、・・大ざっぱに言ってかなり正確である―幕府の天文方の新しい地図は、われわれヨーロッパ人にとっては改良の余地がない」(『日記』、38頁)との結論に達しています。このような認識を持ったので、後日、幕府天文方の高橋景保のもとに保管されていた『伊能図』の写しを持ち出すという事件を、引き起こしたのです。
ところで、シーボルトは、オランダで日本の地図を見ていたと思われます。2024年5月20日付の日本経済新聞では、小林茂が書いた「鎖国下 海渡った日本地図―多彩なルートを追跡、各国で複製・翻訳された理由を探る―」というタイトルの記事が掲載されていました。小林茂によると、海外に流出した地図としては、まずは、絵師の石川流宣が画き、元禄4(1691)年に出版された『日本海山潮陸図』があります。この日本図は、芸術性と実用性とを備えていたために、人気があり、再版を重ねています。それにとって代わったのが、長久保赤水の『日本輿地路程全図』です。初版を改定した『改正日本輿地路程全図』(通称「赤水図」)は、寛政3(1791)年に刊行されましたが、これは市売されていました。ですから、オランダ商館長のティツィングは、この赤水図を入手し、長崎通詞に地名を読ませて、アルファベットで書き留めていたのです。シーボルトは、赤水図を参照しながら、日本の地理について測定を試みたのかもしれません。
正午には、心地よい風が吹いて、家島と播州赤穂を見ながら、船は進みました。3時頃に、風向きが変わり、心地よい風が北向きに吹き始めました。室の沖合に到着すると、海岸から用意してあった引舟が近づいてきて、シーボルトたちの船を港に引いてくれたのです。室に上陸して、船旅が終わったのです。その夜は、港の東側にある宿に泊まっています。
シーボルト日記に記載された船旅の記録は、大変に貴重です。なぜならば、江戸や大阪などに大量に物資を運んでいた大型帆船が、風や潮流などの自然の状況を慎重に判断しながら運行されていたことを、詳述しているからです。
シーボルトの船は、播州赤穂の近海を通り過ぎています。ご承知のように、播州赤穂の城主であった浅野内匠頭は、元禄14(1701)年3月14日に江戸城の松の廊下で刃傷事件を起こし、即日、切腹を命じられています。そして、翌年の12月14日には、赤穂四十七士が吉良宅に討ち入っています。この事件については、幕府の規制があるので、直接、舞台化することはできませんでした。そこで、事件の発生を室町時代に設定して、また、登場人物の名前を変えて(たとえば、「大石由良助」を「大星由良助」と変えています)「仮名手本忠臣蔵」の脚本が作られました。この脚本を「仮名手本」と銘打ったのは、赤穂四十七士を「いろは四十七文字」になぞらえたからです。仮名手本忠臣蔵は、寛延元(1748)年に、大阪竹本座において、初めて人形浄瑠璃で演じられています。この全十一段の舞台は、大評判となり、歌舞伎でも演じられるようになりました。
江戸では、「錦絵」と呼ばれる、色鮮やかな多色摺木版画の技法が、明和2(1765)年に確立しました。図4-1は、その技法が確立して直ぐに画かれたと思われます。
この絵は、ヨーロッパから学んだ遠近法で画かれています。浮世絵版画に遠近法を初めて採り入れたのは、奥村政信(1686-1764)です。彼は、その技法を採り入れた絵を、「浮絵」と名付けました。そして、自分が考案した絵が、真似されるのを防止するために、絵の中に「浮絵根元」と記したのです。当時の浮絵は、絵師が習作として描いたためか、絵師の落款が見られません(当時、遠近法を採り入れた肉筆画は、屋内の様子を描いていますが、そのほとんどには絵師の落款がありません)。図4-1でも、丸屋文右エ門という版元名は書かれていますが、絵師の落款はありません。
図4-1は、仮名手本忠臣蔵の最初の浮世絵シリーズの1枚と思われます。なぜならば、「新版」あるいは「新板」と銘打った、仮名手本忠臣蔵の浮絵シリーズが存在するからです。
図4-1が画いている場面は、「早討之段」と書かれていますが、今では、この場面は「桃井館本蔵松切の段」と称されています。仮名手本忠臣蔵の脚本ができた当初は、「早討之段」と称せられていたのかもしれません。図4-1は、錦絵が誕生した直後の浮絵版画の一枚といえるでしょう。
7.3月8日(水)-室での滞在
午前中は、たくさんの患者がやってきて、シーボルトの助言を求めていました。また、川原慶賀に、港や町の景色を描かせています。午後には、少し散歩し、上検使を訪ねています。上検使は、健康がすぐれず、診療を頼んできたので、ヨーロッパの薬品を使って治療しています。その後、室明神(平安時代に京都の上賀茂神社の神領となったので、「賀茂神社」とも呼ばれています)を訪れています。シーボルトは、海を臨む景色を楽しんでから、若干の観測を行っています。神殿の近くには塔または伽藍という特殊な建物がありましたが、塔のたいへん良い設計図を神官からもらっています。
シーボルトたちは、この小さな町の一方の端から、もう一方の端まで散歩しました。そして、「一筋の狭い通りで表側がすっかり開いている二つの部屋の前を通り過ぎてひどく驚い」(『日記』、40頁)たのです。彼らは、下関や日比では気付かなかった娼家を、目撃したのです。各々の部屋には、十五人ないし十八人の化粧をした遊女が座っていたのです。「一段と若くて美しい女性が、<前方の>明るい光のさす所に坐って並んでいたが、・・身体的・道徳的な退廃の犠牲になっているこれらの女性を見ていると、・・少しもよい印象を受けず、悲しく目をそむけたい気持ちになり、眼前で奴隷のように強制されている女性たちのところを後にした」(『日記』、40頁)のです。
オランダ、ドイツ、ベルギーなどの港町でも、船員や旅客を対象にした「飾り窓」と呼ばれる売春宿がありました。シーボルトは、ドイツの内陸部で生まれ育ったので、ハンブルグやアムステルダムなどで「飾り窓」を目撃しておらず、飾り窓と類似した娼家を、室で目撃してショックを受けたのでしょう。
この絵を画いたのは、月岡芳年(1839-1892)です。彼は、若い時には「血みどろ絵」を画きましたが、月百姿シリーズは、彼の晩年の作品で、明治18(1885)年から明治25(1892)年の間に画かれています。このシリーズの100枚の絵では、背景の月とともに、平安時代や戦国時代の武将や美女たち、幽霊や妖怪などが、描かれています。
明治政府は、江戸時代と同様に出版を統制していました。ですから、図4-2の絵の左下には、版元の秋山武右エ門が、明治19(1886)年2月に、この絵の版下絵を警察に届け出たことが記されています。つまり、届け出が承認されなければ、出版できなかったのです。
図4-2では、平安時代の雅やかな服を着た、室の遊女が、安芸の宮島の厳島神社の鳥居に、小舟で近づく景色が描かれています。しかし、現実には、シーボルト日記から明らかなように、室から宮島まで小舟で行くことは不可能です。それゆえに、この絵は、歴史に詳しい芳年が、想像で画いたと考えられます。
長門本『平家物語』巻第五「室泊遊君歌事」によると、平清盛は、娘の徳子が高倉天皇に嫁いだ後、皇子の誕生を望み、安芸の厳島への月詣で、祈願することにしました。その旅の途中、船を室津に泊めると、室の遊女達が小舟でやって来て、歌舞を奏しました。それを聞いた清盛は喜んで、褒美を与えたのです。芳年は、この故事を念頭に置いて、室の遊女が小舟に乗り、厳島神社の鳥居の柱の後ろの月をめでながら、清盛に代わって厳島で祈願する姿を描いたのでしょう。
3月9日(木)には、室を発ち、陸路で大阪に向かったのです。
1943年川崎市に生まれる。1978年から浮世絵の収集を始める。
1980年に川崎浮世絵協会の設立に参加する。
その時に、世界的に有名な浮世絵収集家である斎藤文夫さんと知り合う。
現在は、國學院大學名誉教授(元法学部教授)、国際浮世絵学会理事
シーボルト参府旅行中の日記
シーボルト 著 / 著齋藤信 訳
刊行年月:1983年01月 思文閣出版