【連載】シーボルトの江戸への旅路 No.2 ―来日と長崎での滞在―
横山 実

1.シーボルトの来日

 フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルトは、1796年2月17日に、貴族の家系の家で、現在のドイツ南部のバイエルン地方のヴュルツブルクで生まれています。ヴュルツブルク大学で、医学を学びましたが、そこでは、観察に基づく臨床医学が重視されていました。観察眼を養った彼は、恩師の影響を受けて、動物、植物、地理などにも関心を持つようになりました。
 シーボルトは、国家試験に合格して医師の資格を取得した後に、東洋での研究を志しました。当時のドイツは、中央集権国家は存在していなかったので、大航海時代の流れに乗り遅れていました。ですから、オランダに行き、東洋での研究のチャンスを得ようとしたのです。
 1822年には、オランダ国王ウィレム1世(在位は、1815年3月16日 – 1840年10月7日)の侍医に口利きしてもらって、オランダ領東インドに赴任することになりました。同年の9月にロッテルダムを出航する船に乗り、喜望峰を回って、翌年の3月にバタヴィア(現在のジャカルタ)に到着したのです。そこで軍医として勤務をはじめましたが、それから間もなくして、オランダ領東インド総督の理解を得て、日本に向かうことになりました。総督は、日本との貿易を盛んにするために、シーボルトに日本調査の使命を託し、資金を提供して彼を日本に派遣することにしたのです。
 シーボルトは、6月末にバタヴィアを出て、8月11日に長崎に到着しました。到着時に、阿蘭陀通詞(江戸幕府の世襲役人で、オランダ語担当の公式通訳者)は、彼が話すオランダ語を怪しみましたが、なんとか出島に入れたのです。そして、オランダ商館付の医師・自然調査官として働くことになったのです。
 オランダ商館長(当時の日本人は、ポルトガル語の「カピタン」と呼んでいました)は、貿易を認めてもらっていることに礼を述べるために、江戸に参府することになっていました。従来は、カピタンは毎年参府していました。つまり、長崎に来航したカピタンは、12月に江戸に参府し、翌年の夏にオランダ船が到着し、貿易品の取引を見届けた後に、10月に帰国していたのです。しかし、取引量が減少したので、1790年からは、参府は4年に1回になりました。そこで、シーボルトは、江戸に参府するまでの2年半の間、長崎にとどまることになったのです。

2.シーボルトの長崎での生活

 阿蘭陀屋敷と呼ばれた出島は、オランダ商館の他に、オランダ商館員の居宅や倉庫など、数十棟が建ち並んでいました。商館員たちは、長崎の町に自由に出かけることはできませんでした。何か目的があって外に出る時は、長崎奉行所や役人に許可を願い出なければならなかったのです。それは、商館付きのオランダの医師が町を出る時も同様で、奉行所の許可をとるのには丸一日かかったこともあったといわれています。
 シーボルトは、臨床医学の最新の知識を持っていたので、長崎で診断および治療に腕を振るいました。そこで、いちいち許可をとらずに、出島の外に出て、医療活動を行うことができるようになったのです。
 医療活動が認められたために、翌年には、長崎の郊外の鳴滝に塾を設置することが許可されました。シーボルトは、その塾を拠点にして医療活動を活発化しました。そこには、西洋医学だけでなく、「地理学」「植物学」「動物学」「言語学」「民俗学」などを学びたい人々が、来訪するようになりました。近代医学の祖といわれるようになる伊東玄朴、日本で初の理学博士となる伊藤圭介、著名な蘭学者となる高野長英たちが、鳴滝塾で学んだのです。
 出島には、外出の機会が少ないオランダ人のために、鑑賞用の庭がありました。シーボルトは、それを実用的な植物園に変えてしまいました。自分が採取したものだけでなく、門人たちが届けてくれた各地植物や鉱物などを、その庭に持ち込んだのです。シーボルトの江戸参府日記には、旅の道中での植物や鉱物などの採取に関する記述が、たくさんあります。

3.楠本滝との出会い

 江戸時代には、大量の物資を安く運ぶために、西廻り航路、東廻り航路、南航路(菱垣・樽回船)が発達しました。この航路で働く者のほとんどは、男性ですので、港町には花街が繁昌しました。長崎にも花街がありましたが、オランダ人と中国人の男性の性欲を満たすのは、丸山遊郭の遊女に限られていました。彼女たちは、丸山遊郭から出島に出向くのです。
 シーボルトは、其扇という名の17歳の遊女を愛するようになりました。そこで、彼女を見請けしたのです。シーボルトの高い地位に見合うようにするため、商家俵屋の養女となり、楠本滝(たき)として嫁いだと思われます。
 文政10(1827)年5月に、娘のイネが誕生しましたので、江戸への参府から帰って来たシーボルトは、国外追放になるまで、「お滝」とイネと共に出島で生活したのです。シーボルトの国外追放により、二人は苦難の道を歩むことになりました。しかし、娘のイネは、シーボルトの弟子であった町医者の二宮敬作から医学の基礎を学び、日本人女性として初めて産科医師となったのです。

1 江戸時代および明治の初めに、貧しい家の少女が売られて、花街で娼婦として働いていたことについては、次の2本の英文をお読みください。
Yokoyama, Minoru (2020a). Prostitution and Control of It in Edo Era in Japan.  Kokugakuin Journal of Law and Politics, 58 (1): 25-58.
Yokoyama, Minoru (2020b). Expansion of Prostitution in Meiji Era in Japan.  Kokugakuin Journal of Law and Politics, 58 (3): 189-241.

4.長崎絵-ロシア使節の絵

 長崎の町絵師は、来訪したオランダ人や中国人の生活を描きました。彼らは、出島に赴いて、オランダ人の装束、生活様式、持ち物などを描いたのです。長崎の絵師は、江戸の絵師と比べて、社会的地位は低かったのです。それゆえに、長崎絵の大半には、絵師の落款が入っていません。安価な風俗描として描いたので、和紙は粗悪なもので、茶色、藍色、紅色、墨色などの限られた色で描かれていました。そのような長崎絵で特異なものが、図2です。

図2-1.ヲロシャ国ノ使節 レサノット
図2-2.ヲロシャ国ノ使節 レサノット (部分)

 図2の絵は、「文化元甲子(1804)年九月七日」に長崎に「渡海」してきた「ヲロシャ国ノ使節 レサノット」を描いたものです。この絵を説明する前に、レザノフ(この絵では、「レサノット」とカタカナで表記されています)が、ロシア使節として、長崎に来航する経緯を説明しておきます。
 帝政が確立したロシアは、冬に凍らない港を求めて、南下政策をとりました。その政策の一環として、極東の日本に国交を求めたのです。女帝エカチェリーナ2世は、1792年の秋に、アダム・ラクスマンを使節として北海道に派遣しました。しかし、ラクスマンは、幕府が交渉場所と指定した長崎には行かずに、帰国しています。そこで、第2回目の試みとして、ニコライ・ペトロヴィッチ・レザノフが、遣日使節としてアレクサンドル1世の親書を携えて、1804年9月に長崎に来航したのです。
 老中の松平定信は、ラクスマンに長崎での交渉を約束しましたが、その後、彼が失脚したので、幕府は、レザノフに強硬な態度をとりました。当初は長崎周辺の海上で待たせ、出島付近に幕府が設営した梅ケ崎宿舎への上陸を認めたのは、来航から約2か月後だったのです。レザノフは、翌年の3月まで梅ケ崎宿舎に滞在しましたが、幕府は、結局、親書を受理せず、レザノフが乗ってきた船に退去命令を出したのです。レザノフは、梅ケ崎宿舎に滞在中、日本人と親しく交流していたのですが、退去命令に立腹して長崎を去ったのです。
 図2では、正装の軍服姿のレザノフが描かれています。彼は制服で海岸を散歩することはなかったはずですので、絵師は、公の席での彼の軍服姿を見て、それを描く背景に梅ケ崎宿舎の近くの海岸を描いたのでしょう。なぜならば、絵師は、幕府と交渉する正装のレザノフを描くことはできなかったと思われるからです。
 ところで、シーボルトは、1826年4月10日に川崎の宿から「礼服を着て六時に将軍の居住地に向かって出発」(シーボルト著・齋藤信訳『シーボルト参府旅行中の日記』(思文閣出版、1983年)101頁。以下、この本を『日記』と略記します)しています。シーボルトは、軍医ですので、おそらく、レザノフと同じような軍服を着て、江戸に向かったと思われます。
 図2では、レザノフは大男として描かれています。当時の普通の日本人は、動物性たんぱく質を摂食しなかったので、平均身長は、男性で155cm~156cm、女性で143~145cmと、日本の歴史上一番低かったのです。ですから、レザノフは、ガリバーのような大男として描かれたのです。
 図2の絵の版元は、右下で書かれているように、「長崎 大和屋」です。長崎の大和屋は、磯野文斎が経営していました。磯野は、江戸で渓斎英泉に絵を学んだ後、文政6(1823)年頃に長崎に戻り、版元として店を経営しながら、江戸で学んだ最新の技法を生かして、美しい長崎絵を描いています。もしそうであれば、レザノフが長崎に来航した「文化元甲子(1804)年九月七日」には、江戸に滞在していたことになります。ですから、この絵は、磯野が、無名の絵師が描いたものを使って、文政6年以降に美しい錦絵に仕立てて、売り出したものといえそうです。

5.長崎絵―川原慶賀が描いた絵

 シーボルトと交流があった絵師は、川原慶賀です。長崎の町絵師の父を持つ川原は、風俗画や風景画を描いていました。出島への出入りを許されてからは、オランダ商館員たちの生活も描いています。シーボルトは、彼の腕を見込んで、江戸参府に同行させています。川原は、道中の風景画、風俗画、人物画などを描きましたが、それらの絵は、オランダへ運ばれたのです。それらは、19世紀初頭の日本を知るための貴重な資料となっています。
 シーボルトは、2年半の間、長崎で十分な準備ができたので、江戸への参府の旅で充実した研究を行っています。次回は、長崎から陸路で下関に行き、そこから瀬戸内海の船旅を始めるまでを書かせていただきます。

筆者(横山 実)のプロフィール

1943年川崎市に生まれる。1978年から浮世絵の収集を始める。
1980年に川崎浮世絵協会の設立に参加する。
その時に、世界的に有名な浮世絵収集家である斎藤文夫さんと知り合う。
現在は、國學院大學名誉教授(元法学部教授)、国際浮世絵学会理事

引用

シーボルト参府旅行中の日記
シーボルト 著 / 著齋藤信 訳
刊行年月:1983年01月  思文閣出版

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