松田哲博の相撲道『次郎長と鉄舟と浦五郎』 

目次

次郎長と鉄舟と浦五郎

名古屋から東京進出を目指す高砂改正組
清水の次郎長
神田佳子氏 撮影

 清水次郎長は、「海道一の親分」として浪曲や映画、小説にも度々取り上げられるお馴染みの侠客です。その次郎長親分の元に初代高砂浦五郎がやってきたのは、明治9年春のことでした。
 播州は高砂の浦にまつわる「高砂浦五郎」は、幕末から明治にかけて前頭筆頭まで昇進した姫路藩お抱えの高見山が、ある事件をきっかけに藩主の酒井候から頂戴した四股名です。
 明治の世になっても旧態依然たる相撲会所(協会)の改革を訴えた初代高砂は、生意気だと破門になったため、名古屋を拠点とした高砂改正組という新団体をつくり東京進出を目論んでいたところでした。愛知県令だった鷲尾隆聚が、正義感に溢れ義侠心に富む高砂の後援者となり、大阪相撲や京都相撲とも提携して各地で巡業を重ねながら、東海地方から東京方面を目指して興行をつづけていました。
 初夏のある日、静岡に乗り込んだときのことです。乗り込んだもののまるで客が入らない。聞けば、ちょうど茶摘みの時期で、人々は猫の手も借りたいくらい忙しく相撲見物どころではないといいます。戻るに戻れず進むに進めず頭を抱えていたときに、親交のある山岡鉄舟からの「海道筋で困ったことがあれば清水の次郎長を頼るといい」という助言を思い出し、次郎長の元を訪ねたのでした。

相撲だけで飯が食えるよう相撲界を改革したい

 剣豪で知られた鉄舟は、駿府の西郷隆盛の元に単身乗り込み江戸無血開城をお膳立てした幕臣で、剣・禅・書の達人としても有名です。西郷隆盛から「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」と称賛された人物で、その徳を慕って食客として押し掛けた弟子らを、来る者拒まず何人も屋敷で面倒をみていたといいます。
 浦五郎の後ろ盾である鷲尾は、お公家さんでありながら剣術にも秀で、後に鉄舟と剣槍柔術永続社という会を始めたほどでした。剣を通して知己だった鉄舟を、鷲尾が浦五郎に引き合わせたようです。
 さて、次郎長を訪ねた浦五郎は、相撲会所とのこれまでの経緯や幹部の専横について話したあと、「力士が相撲の収入だけで生活できるよう相撲界を改革していかなければ未来は開けない」とタニマチに頼らなければ食っていけない力士の窮状を訴えました。
 次郎長は100人を超える乾分を抱える身でしたから、上に立つ者の辛さも、権力を持つ者がいかに横暴かも身に沁みてわかっています。乾分たちに「金を欲しがるな、豪(えら)くなろうと思えば金を欲しがるな」と常に言い聞かせていた次郎長は、金や名誉のためでなく相撲界のために全霊を捧げている浦五郎の赤心に感じ入り、こう言いました。
 「まかせてくだせぇ、親方の名前は、山岡先生からお聞きする前から存じておりました。わしらの仲間の会津の小鉄や難波の福から、親方の筋の通った男ぶりを聞かせてもらってました」。

三都相撲で名を馳せた浦五郎
初代高砂浦五郎

 当時の大相撲の巡業は、各地の侠客とのつながりが深く、持ちつ持たれつの関係で興行が成り立っていました。時に契約方法や取り分で揉めることもあったため、頭に立つ者の度量の見せ所でもありました。
 浦五郎は、東京、大阪、京都の三都相撲が京都で行われたときに、開始前に京の東京組の宿に乗り込み、居座って三都相撲の開催に待ったをかけた過去があります。元々、この三都相撲は、浦五郎が東京相撲にいた頃にまとめたものであったのに、引き延ばしされた上それを横取りされたようなものだったから、浦五郎の言い分に正当性があったのです。見かねた京都の「会津の小鉄」や「難波の福」等名立たる親分衆が仲裁に入りましたが、浦五郎は一歩も引かず、最終的には鷲尾県令が間を取りなし、ようやく初日の幕を開けることになったのでした。揉めに揉めての開催だっただけに噂が噂を呼び、連日大入り満員札止めとなりました。浦五郎ら改正組一同は、正面貴賓席に招待され、時の人高砂浦五郎を一目見ようと大勢の観客が押し寄せ、入り切れない5千人余りの客が会場を取り囲んだほど人気だったそうです。
 この一件も、同じ侠客仲間の小鉄や福から聞き及んでいただけに、浦五郎と会うのを楽しみにしていた次郎長は、噂に違わぬ彼の男気に惚れ込み、静岡での宿代と次の巡業途への路銀を用意してやり、兄弟分の盃を交わしたのでした。

東京相撲に復帰し、相撲会所の取締に

 浦五郎も、次郎長の恩義に深く感じ入り、好意を有難く頂戴し、ようやく東京へ乗り込むことができました。さらに、紆余曲折はあったものの明治11年5月に東京の会所と高砂改正組との対等合併が相成り、5年ぶりの東京相撲復帰が叶ったのでした。復帰を機に浦五郎が東京相撲で新しい部屋を興したため、同年5月場所が高砂部屋創立の場所となりました。
 合併後も浦五郎を快く思わない守旧派は嫌がらせを仕掛けてきますが、浦五郎は取り合わず、揉め事が起きると進んで仲裁に入り、守旧派の行いを快く思わない親方たちの聞き役となり、少しずつ支持者を増やしていきました。5年間裏方に徹している間に、守旧派幹部の逝去があり、さらに切り崩しにも成功して地盤を固め、遂に16年2月には、相撲会所のトップである取締に就任します。取締となった浦五郎は旧恩を忘れずに、早速次郎長親分を鉄舟と共に本場所に招待しました。桝席で歓待を受けた次郎長親分は、大喜びだったそうです。

次郎長と鉄舟の奇なる縁
山岡鉄舟
神田佳子氏 撮影

 次郎長と鉄舟の縁は、元号が明治に改まった年の9月に遡ります。戊辰戦争で旧幕府艦隊の運送船として航行中だった咸臨丸は、台風に見舞われ清水港に寄港したところ政府軍に襲われ、皆殺しにされた乗員は海に放り出されました。そして官軍から、
「賊軍である咸臨丸の乗組員の遺体には触れるな、埋葬するな、この掟を破ったものは反逆者として厳罰に処する」とのお触れが出たため駿河湾には浮いた遺体の腐乱臭が漂い、清水港は死んだようになってしまいました。当時、次郎長は清水の顔役として官軍を手伝う立場にありましたが、官軍の仕打ちを許せず、お触れを承知の上で子分と共に遺体を収容して供養しました。
 案の定、駿府の役所から出頭命令が下り、次郎長の取り調べを行ったのが鉄舟でした。「朝廷に対して賊名を負うた者の死骸をどういう料簡で始末したのだ」と問う鉄舟に次郎長は、「生きているうちは官軍だ徳川だと敵味方に別れて戦っても死ねば皆仏です。仏に敵味方はござりますまい。また、死骸で港が塞がれば港の稼業も困ります。仏のため港のためを思ってやりましたが、それがいけないことだとおっしゃるなら、どうともお咎めを受けましょう」と悪びれずに返したといいます。
 それを聞いた鉄舟は「そうか、それは奇特な志だ。よく葬ってくれた」と労いの言葉をかけ、お咎めなしとなったのでした。後のことですが、次郎長の求めに応じて「壮士墓」という墓標も認めました。

次郎長収監

 ところが、17年1月に思いもよらぬ出来事が起こります。政府から「博徒取締処分規則」が公布されたことにより、次郎長は懲役7年、過料400円(現在の1000万円程)の判決を言い渡され、静岡井ノ宮監獄に繋がれる身となりました。
 浦五郎は、次郎長収監の一報を鉄舟から聞きました。「困ったことになった」と頭を抱える鉄舟に、博徒からはとっくに足を洗っている次郎長が収監された訳を尋ねると、本人は足を洗っていても、次郎長一家は続いており、子分たちがお縄になると必ず次郎長の名前が挙がるため、侠客の中では知らない者はいない次郎長を見せしめに監獄に繋いだのだろうと鉄舟は答えます。さらに始末の悪いことに、今度の静岡県令は、薩摩の奈良原繁という男で、幕末に寺田屋騒動や生麦事件で生死の境を潜り抜けてきただけに、「博徒何するものぞと」意気込んでいるというのです。

身分や立場を超えた繋がりによって創られた明治日本

 そこで鉄舟が浦五郎に力になって欲しいと頼むと、「今日私があるのも次郎長親分のお陰ですから、私に出来ることでしたら何なりと」と浦五郎にとっては是非もありません。
 「俺が出ていくと、次郎長と俺の仲を知っている奴等が公私混同と言いかねねぇから、鷲尾伯爵にお願いしてもらえんだろうか」
 「そいつはいい考えだ。鷲尾さんは県令もやっていましたし、内務卿や司法卿にも顔が効きなさる。まかしておくんなさい」
 浦五郎はその足で鷲尾の元へ走り、次郎長が維新以来清水のため、静岡のためどれだけ社会事業に貢献してきたかを熱く語ると、鷲尾もすぐさま了解し「手を打とう。何とかしよう」と請け負ってくれたのでした。
 早速、鷲尾は内務卿や司法卿に話をつけにいったのですが、「太政官布告として取り締まった件を簡単に覆す訳にはいかない。ましてや全国に名の売れた次郎長を釈放したとなると他に示しがつかない」との理由から頑なに拒まれます。それでも、65歳の高齢になっている次郎長が監獄の中で不自由をしないよう手厚く保護することだけは請け負ってもらうことができました。
 それから1年後に静岡で起きた大きな地震によって井ノ宮監獄は被害を受け、次郎長も腰を痛めてしまいます。そこで再び浦五郎と鉄舟が鷲尾経由で嘆願すると、今度は県令も恩赦を認め、釈放が許されました。
 浦五郎は、喜びの余り弟子を引き連れ静岡まで出迎えに行きました。次郎長親分の釈放を子分たちはもちろん清水の町民やその他次郎長に世話になった人々が静岡内外から数千人も集まり、街道に列を成して喜んだそうです。
 清水の家に戻ると鉄舟も加わり、浦五郎と三人で久しぶりに盃を酌み交わしました。身分や立場は違えども肝胆相照らす仲となった、幕末から明治の動乱を生き抜いた男たちは、その垣根を超えた繋がりによって明治日本を創り上げていったように思います。


「松田哲博の相撲道」は松田(元・一ノ矢)さんが初の国立大学出身力士となり、46歳11か月で引退するまで24年間の土俵人生を全うし、その後、マネージャーとして高砂部屋の運営を支えながらシコトレの普及や相撲の物理的探究を続け、その内容や高砂部屋にまつわる相撲の歴史などを紹介する貴重な読み物となっています。相撲道とはー。
(相撲ファンのみならず2014年から『きらめきプラスVolunteer』(連載時は『きらめき百歳』)で連載が始まると読者から「いつも一番先に読みます!」「松田さんの連載を読むのが楽しみです」というお言葉をいただける連載でした。引き続きWEB版『きらめきプラス』で連載が始まりました)

松田 哲博(元・一ノ矢)

1960年生まれ、鹿児島県大島郡徳之島町出身。高砂部屋(入門時は若松部屋)所属の元大相撲力士。
琉球大学入学と同時に相撲部を興す。琉球大学理学部物理学科卒業後、若松部屋(現在は高砂部屋)に入門し、史上初の国立大出身の力士となる。得意手は押し、出し投げ、肩透かし。
昭和58年の九州場所で初土俵。以来、平成19年の九州場所において46歳11ヵ月で引退するまで、24年間の土俵人生をまっとうする。
序二段優勝2回。引退後はマネージャーとして高砂部屋の運営を支えつつ、シコトレの普及や相撲の物理的探究を続けている。

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