株式会社ハピネス 代表取締役 隆久昌子
とにかく自然体、その人の笑顔はチャーミングで底抜けに明るくキラキラしている。
誰もが魅了される86歳。
「手作りネクタイ」の講習を始め、「幸染め」を創業し50年、その活動を支え続ける源泉とは―。
震える魂
隆久晶子さんは昭和13(1938)年、北海道札幌市で生まれ、鉱山の関係を仕事にしていた父の影響で道内を転々とする。
隆久
10歳頃だったと思いますが父の仕事の関係で留萌の方の炭鉱の町に住んでいました。そういうところは組合の闘争やレッドパージが吹き荒れ子ども心に尋常ではないと思っていました。
そんな環境の中、私はなんだかじっとしていられず、子ども同士で子ども会のような形を作り納豆を売り歩きながら登校するようになりました。
おばちゃんたちが待っていてくれるようになり、えらいねぇーと褒められるのが嬉しく、お金のやり取りも楽しかった気がします。残ったお金でキャンディーを買ったりして(笑)。そうこうするうちに他の物も売るようになり、中学生も仲間に入り勉強も教えてもらいとてもいい関係が続くのですが、線路を挟んで小学校と中学校があるので、連絡係の私は大変でした。そこで考えついたのが炭鉱組合の町内放送。町の人や働く人への有線放送があったのです。それを子ども会の連絡手段として使わせて欲しい、と組合のお兄さんに頼みに行きました。そうしましたら、
「面白い子だねー。面白いことを考えついたな。そしたらこの本を読め、そしたら使わせてやるよ」と渡されたのがその時は何もわかりませんでしたが、赤い方の本でした(笑)。結果的に本日の集まる場所はどこそこでなど、有線放送を便利に使わせてもらいましたが、その本には社会科学なんていうことも書いてあって、初めて目にする活字にエッ! こういうことってあるのか! と驚きましたね。
知らないことを知るワクワク感で隆久さんはいろいろな勉強サークルに顔を出し、そこである人の平和論を耳にする。
隆久
平和論はどきどきするような面白い論法でした。そこから私は、平和運動をやろうとずっと夢中になり、何故ここまで心が震えるのか、その答えをさがそうと中学の修学旅行のお金を平和運動の活動がある山形に行くために使いました(笑)。それほど夢中になっていたのです。
その時は修学旅行に行くよりもそこで大人たちのいろいろな話が聞けて嬉しかったですし、その活動の中心になっていた方のお墓参りに行くというので付いて行き、そこでその方のご親族にもお会いできました。これが運命だったようにも思います。
その後、旭川の高校に入学したのですが、だめでした。落ち着いていられないのです。
その当時、平和運動の拠点になっている山形市にどうしても住みたくて山形市の高校に一年で転入しました。すごいでしょ(笑)。
両親は私のじっとしていられない性格を知っていますので反対らしい反対はありませんでしたが、一人で経済的なこともあり働きながらの高校生活。へんてこな人生なんですよ(笑)。
アイデアで動く
山形の駅を降りた時に目にし、耳にした街頭宣伝。すぐに興味を持ち街頭宣伝をしている会社を探しだし自らを売り込む。ここでも面白がってもらい採用される。ここから子ども会で活動した時のように困った時はどうやったらいいのか? アイデアを発揮した。アイデアで広告営業も担い、そこで知り合った人たちと学習塾やバレエ教室なども主宰する。すべては出逢った相手が望むことを一緒にやり、実った時の喜びでつき動かされての行動だったという。
隆久
人との出逢いから生まれる事業は楽しかったですね。もちろん平和運動も続けていました。平和会議の時は全国から人が集まり感動もしていたのですが、日常の生活になると酒を飲んでただ語るだけの大人に疑問を持ち、不思議に思い何故こんな状態の日常なのか? 聞いてみたら機関紙を出すにも活動にはお金がかかる、そのお金が無い、というのです。それを聞いてまたじっとしていられない私はじゃ! どうする? ですよね(笑)。
お金を稼ぐなら東京! 高校も卒業していましたので、それでエイ! っと東京に来てしまいました(笑)。
貪欲に働く
その言葉通り、東京に身寄りはなかったが、持ち前の行動力を発揮して化粧品のセールスなどで稼ぎ、平和運動の活動資金を山県に送り続けた。同時に平和運動を立ち上げた人の弟子という人たちを訪ね歩くようにもなった隆久さん。訪ねた多くの弟子は当時、政治家が多く、その後の人生でその方たちの人脈に助けられたのは確かだという。
隆久
私は運が良かったと思いますよ。いつも人との出逢いから何かが始まるのです。東京は勉強の場所が本当に多くていろんな方と知り合い、ご縁ができました。常に平和運動が基本で動いていましたし、稼いでもいましたから結婚は必要ない、と正直思っておりましたが平和運動の先輩たちに「それはよくない、人と同じ生活をしないと誰も貴方の話は聞いてくれないよ」と言われました。なるほど、それもそうだ、と素直に思いましてね(笑)。26歳で結婚し年子で下の二人は双子、三人の男の子にも恵まれましたが、この結婚がまた大変なことになるのです(笑)
夫となった男性は仕事上の借入の際に勝手に隆久さんを保証人にしたため気が付くとおかしな人たちから返済を迫られるようになっていた。
隆久
怖かったですよ。不気味な人たちから私に返済をしてもらう、と脅かされましたからね。30歳になっていました。結局三人の子どもと借金も抱えて離婚いたしましたので、母に一緒に住んでもらい、子育てなど家のことは母に任せて借金の返済もありましたから、睡眠時間はわずか2、3時間位で本当によく働きました。この時も、乗り切るため、じゃーどうする? 精神で無我夢中で働きましたね。
その合間に平和運動などでご縁ができた政治家の皆さまや、お世話になったいろいろな先生方に、感謝の気持ちを込めてまごころで手作りネクタイをプレゼントしていました。まさか、それが大きく動き出すきっかけになるとは夢にも思っておりませんでしたが(笑)。その中のお一人、渋沢栄一さんのご子息、渋沢秀雄さんがたまたまプレゼントしたネクタイを結んでNHKの番組に出演され、その時に手作りネクタイの紹介をしてくださって「これからは手作りの時代だよ」とおっしゃったのです。
大きく動き出す
隆久さんは幼少期から衣類の染め替えや編み物など、なんでも工夫する手作りの楽しさなどの手作り精神をお母様から授かっていた。
隆久
母は戦時中の食べ物も何もない時代にも常にいろいろ工夫して食べさせてくれました。着る物にも困らないように染め替えや作り変えもご近所の皆さんと楽しんでいましたし母の得意分野でしたね。私自身、6歳の時には母から教わって古いメリンス(毛織物の一つ)を裂いて弟のオムツカバーを作ったりもしていました。
中学一年生頃だったと思います。手編みのネクタイを父に初めてプレゼントした時のことです。父がこの時「嬉しいのだけど編んだネクタイはカジュアルだから、残念だけど正式な場にはしていけないんだよ」と教えてくれました。この時の教えがずっと頭の中にあったのと私の中でネクタイというのは特別な物でしたから、綺麗な布で作ってお世話になった先生方に感謝の気持ちを込めてプレゼントをしていたのです。
この渋沢さんの発言と同時に、読売新聞に「手作りの時代です」と大きなタイトルで手作りの良さみたいな記事が掲載されました。
そこから手作りネクタイを教えて欲しいという依頼が多くなり、知り合いの空き家を借りてそこでネクタイの講習会をするようになりました。その空き家が神楽坂だったのです。この時によし! この手作りネクタイをやっていこう、と心が定まり1974年㈱ハピネスを設立しました。これが神楽坂とのご縁で大好きな神楽坂に50年お世話になっています。
手作りネクタイの講習会は全国に広まり、文化服装学院の特別講師、産経学園や講談社カルチャースクールの講師も務め、NHKやワイドシヨーなどのTVでも手作りネクタイを紹介するようになる。その活動を目にした北海道の友人から新たな活動を紹介される。
隆久
友人が蛇の目ミシンに就職していましてこの手作りネクタイを蛇の目でもやるべきだ、と担当の方をご紹介いただきました。手作りネクタイセットというのが蛇の目から発売され、瞬く間に大ヒット。その功績などで顧問に推薦され、その時対応してくださったのが当時は相談役でしたが、蛇の目ミシン工業の社長として月賦販売で確固たる地位を築いた嶋田卓弥(シマダタカヤ)さんです。この方にはよく働かされましたねー(笑)。テーマが生まれるとさてどうする? と考え余計なことを言って動く、この性格は今思えば小学校の時に組合のお兄さんに交渉しに行った時と変わっていないのよね(笑)。
ちょうどミシンがコンピューターになった時でどう売ろうか、という会議の時にミシンを個人の月賦販売しかやっていないけど学校にミシンを導入していないのが不思議だった私はそれを提案し、家庭科の先生用のマニュアルのようなカタログを作って販売するとこれも大ヒット。実現しないと意味がないから提案したことは成功するように自分で忙しくしてしまう性格を嶋田さんは見抜いていたのかしら? と思うほど、よく働かせられたと思います(笑)。でもそんな私を面白がっていただき、いろいろな方をご紹介いただきました。そこからまたご縁が広がりましたね。
心を込めた幸染
ミシンの導入で学校の先生たちとの交流が始まり、そこで縫うだけですか? 染めたりはしないのですか? と質問を受けたことから「そめもの」がライフワークとなっていく。
隆久
テーマがあるとつい動いてしまう性格はずっと続いていまして、もともと本物やいい物が好きな私は手作りネクタイ教室を始めた時もネクタイ専用生地を使うために京都に行き、ネクタイ組合から応援もいただいておりましたので、織っているところや染めているところにも通っていました。
写し友禅法は型紙と写し糊を使って、手工的に模様を印捺する方法で伝統的な型染めを変革して、友禅染めを大衆化した技法である。と言われておりますが、学校の先生から染めないのですか? の一言からじゃーどうする? 精神で(笑)、「そめもの」の多彩と不可思議な働き、歴史、理論、技法などの探求が始まりました。テーマを与えられると燃えますねー(笑)。そめものは知れば知るほど面白く高め続けたくなりました。研究し続けて紙状の染料とリキッド状の染料を研究開発することで、日本古来の染色技法すべてを生かし、それを超えて多種多様の新しい染表現を考案し、60種の手法を揃えることに成功しました。そんな時にスイスの薬の会社ですが、この会社は染料の研究もしていてそこの社員がうっかりミスで色を付けたしまったことで発見された昇華性染料に出合い、私が名づけた「幸染」の誕生に繋がります。
「そめもの」が隆久さんのライフワークとなり「暮らしのそめもの教室」へと洋裁学校協会の諸先生に応援され広がっていく。
「幸染」はアイロン熱で気化され、繊維の奥深くに浸透・統合させるため、染め布の光沢も風合いもそのままに洗濯や摩擦にも強い実用的な染色のため、誰でも簡単に出来るようにペーパー状にして、1998年には専用教材の販売を始めた。
隆久
幸染はアイロンの熱で40秒染めた後は洗濯しても大丈夫なのです。摩擦にも強く色落ちなどの心配もありません。フリースにも染まります。ネクタイは染めないのですか? の学校の先生からの質問でスタートしましたが、子どもが扱うときでも安全か、毒性はないかなどの完璧な幸染めを目指して研究を続けてきましたから、専用教材の販売を初めるまでに20年は経過していたと思います。専用教材販売の翌年からNHK教育TVのおしゃれ工房やTBSはなまるマーケットなどにも取り上げていただきました。NHK学園の通信講座も開講いたしまして、私がちょうど60歳になった年のことです。たまたまWHO(世界保健機関)の講演会をスイスの本部で聴く機会に恵まれ行ってきました。テーマは「21世紀すべての人に幸福を」でした。とても大きなテーマですが幸福でいるためにはまずは健康でないといけません。
私自身、本当の健康法はメンタルが大事、自然が大事、だと思っていましたから、きちんと聞いてきちんと皆に伝えなきゃ! 伝えるためには講演が大事、やらなきゃ! そんな思いで「NPO法人 山の幸染め会」を設立して健康と自然の大切さを伝えるならば科学技術館がいいと科学技術館での開催を思いつき、講演会をやりました。お陰様で大盛況、全国に幸染めのインストラクターが育っていくようになったのもこの講演がきっかけでした。
たゆまぬ歩み
NPO法人 山の幸染め会を設立してからは野外の体験会を始め、小学校の教育現場や障害者福祉センター、老人ホーム、介護施設などにも活動の場を広げている。
隆久
私はやっぱり運がいいのだと思います。
山の幸染めは今のエコの時代だからこそ自然を愛して花や葉を染めるという形が皆さんに愛されるのだと思いますし、学校の出前講座ではエコロジー染色とも言っています。タイミングよく東北大学の先生たちによる脳の活性化の実験では工作手工芸という分野ではダントツの一位をいただきました。みごとに右脳も左脳も前頭葉も活性し、幸染は作業療法にも認知症予防、認知症治療にもいいと証明されました。
色が与える影響はすごいですから自由な発想でデザインができますし、高齢者や障害者にもいろいろな能力を高める可能性があることもわかりました。いろんな意味でSDGsだと思いますね。今後はそういった分野にも広めていきたいと考えております。同時に小学生の時にワクワクドキドキした平和論法での学びが私のへんてこ人生の元になっていますから、学びを生かし、世界平和を目指す活動も続けていきます。
ご縁ができる方に助けられ運がよかったと思いますが、睡眠時間を削り本当によく働いたと思いますね。働き方改革が一番必要な人間だと思いますよ(笑)。でもね、85歳になりまして歳ってこういう形でくるのかぁーと感じることが多くなり、残り少ないからやるべきことをやらなきゃ、と更に多用になっています。だから周りが迷惑するくらい前より、わぁーわぁーキャーキャーうるさいですよ(笑)。
神楽坂が大好きで神楽坂の文化とか素敵さをお伝えしてもいいのでは? と勝手に神楽坂TV、YouTubeも立ち上げました。
神楽坂の美味しいお店やお洒落なお店を紹介しながら伝統芸能という日本の文化に関わるこんな素晴らしい方たちも、こんな風に神楽坂を応援してくれています、みたいな内容になっています。
夢を描いてチラッとでも思ったことは実現せよ、と神様が命令しているように思いますし、そんな夢と希望が私の元気の源のような気がしております。生涯かけて描いた夢の実現、続けますよ(笑)。
会社案内
株式会社ハピネス
〒162-0826
要京都新宿区神楽坂6-74
TEL 03-3260-8611
https://sachisome.com
自由デザインで自分らしさを発見!
新宿区のふるさと納税の返礼品としても人気が高い体験チケットとしても選出された「山の幸染め」の普及に現在は力を入れている。
https://furunavi.jp/product_detail.aspx?pid=975099
花街として栄えた時代の面影を残しながら洗練された雰囲気を持つ神楽坂では若者の姿も多く目にする。若者にも人気の神楽坂に魅了された隆久さんは、この神楽坂で手作りネクタイを広め、1974年㈱ハピネスを設立する。ハピネスは幸せが大好きな隆久さんが名付け親だそうだが、『雪の降る街を』の作詞でも知られる劇作家の内村直哉先生に幸せと感じる能力、心、その感性が無かったらハピネスにならないと言われたそうだ。
隆久昌子さんが小学生の時ドキドキしたのは故・石原莞爾氏の平和運動論だった。生きる指針となっていく平和論には夢や希望が溢れていた。隆久さんは2008年、「はちどりクラブ」という平和運動プロジェクトも発足した。隆久さんが続けてきた平和運動はハピネスという社名と共に、すべては「まごころ」で繋がってきた、という言葉がストレートに胸に響いた。
取材:ヨシノ