お恵ちゃん(山田 ひろみ)ーーVol27より抜粋

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歌うことの喜び

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5歳で一家離散

父が酒乱で母はどこかに行ってしまい4歳上の兄と私は5歳の時養護施設に預けられました。その施設には天皇陛下がいらしたり、ジョンソン基地が近くにあったのでアメリカ人もよく来てました。終戦後の孤児の状況を見に来ていたようです。100人以上の子どもがいましたがハーフの子もたくさんいましたね。ほとんどの子は孤児でした。少し大きくなってから何故か本格的に日本舞踊を習わされ渋谷公会堂などで施設代表として出演するようになりました。当時施設の子がそういう活動をするのは珍しかったらしく、テレビの取材が入ったり、テレビ局まで行って収録もしました。
司葉子さんとの共演もあったのですが内容はほとんど覚えてませんね。何故私が日本舞踊を習うことになったのか今も思い出せないのですが、間違いなくこれが私の芸能活動の原点だったと思っています。

父が迎えに来る

私のそんな活動を父がテレビか何かで知ったらしく突然施設に迎えにきました。7歳頃だったと思います。まだ小さかったので何も分からず喜びましたね。しかしこれが私のどん底生活の始まりだったのです。父は別府にいる妹を頼ってそこに行くために私を施設から連れ出したのです。当時「光」というタバコがあったのですがそのタバコの裏に父が「この子に何か食べ物かお金を与えてください」と書き私に持たせます。私はセリフのように覚えていて「今、旅してます。何か食べ物かお金をください」と言います。塩を撒く人もいました。可哀想にとオニギリを差し出してくれる人もいました。
物乞いしながら建設中の家とかドヤ街に潜り込んで寝泊まりして歩いて一ヶ月以上かけて別府の父の妹のところにたどり着きましたが、追い返されてしまいます。結局たどり着いた先は山谷のドヤ街でした。
学校にも行けず、酒飲みのおじいちゃんたちとの毎日の生活でしたからそれはもう悲惨でしたね。
施設に父が迎えに来てから一年ほど経っていたので8歳位になっていた頃だと思いますが、ドヤ街から逃げ出し、助けを求め警察に飛び込みました。しかし、頭のおかしな女の子扱いされ私は留置所に入れられてしまいました。いろいろ調べられようやく品川児童相談所へ移り、その後あちこちの養護施設を転々とし、最後は北多摩郡の養護施設に落ち着きました。養護施設では寮母さんをお母さんと呼んでいました。「おはよう」、「ただいま」と言えるお母さんがいるというのは本当に幸せでした。
小学校5年の時、兄弟・姉妹は同じ施設で一緒に暮らすようにと決められたので、私は兄のいる石神井の施設に移りました。そしてそこで中学に入学します。

また父が施設に迎えに来る

中学2年の時です。「石丸(旧姓)ひろみはいませんか?」・・・

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